1902年(明治35年)、第2の官立高師が広島に設立されると高等師範学校は東京高等師範学校と改称、1911年(明治44年)には広島を含む高師卒業者を対象とする「専攻科」が設置された。また1890年(明治23年)以降1920年(大正9年)に至るまで、3度にわたり校長に就任した嘉納治五郎の下で「軍隊化」方針が一部緩和され、スポーツ活動を通じた人材育成が進められた結果、日本の学生スポーツ濫觴の場となり、特に第一次世界大戦後に日本のスポーツが世界に飛躍していく基礎が築かれることになった。
1918年(大正7年)の大学令の制定以降、第一次世界大戦後の政府の高等教育拡充政策の中で多くの高等教育機関(旧制専門学校)が大学への昇格を果たす中、東京高師においても、校友会が「吾人はすでに忍ぶべきを忍び堪うべきを堪えたり。今や我らは起りて死力を尽して目的の貫徹に努むるのみ」と宣言し、教授会・茗渓会と連携し、「教育尊重、精神文化の宣揚」をスローガンに掲げ大学昇格運動が高揚した ⇒[1]。1945年5月の東京大空襲により門柱だけとなった東京高師大塚校舎
この結果、高師専攻科を母体として官立単科大学が設立されることとなり、1929年(昭和4年)東京文理科大学として発足したが、それに先立つ政府・議会の審議では、教員養成を専門とする師範大学か、研究に重点を置く単科大学かについて論争が生じ、結局後者の意見が通り文理学部のみを置く文理科大学として実現をみたという経緯があった。従って東京高師は東京文理科大学への昇格(吸収)ではなく、文理大に附置されるという形でそのまま存続したため、その後の高師と文理大との関係に微妙な影を落とすこととなった。
さらにこの時期には、各府県の師範学校の本科に中等教員養成のための「第2部」が設置されるようになり、また大学令によって大学に昇格した私学においても同様の高等師範部の設置が認められ、これらが拡充整備されるに伴って中等学校教員養成機関としての東京高師(および広島高師)の比重は相対的に低下せざるを得ず、1929年(昭和4年)以降の大恐慌による財政難を理由に、東京高師と東京文理大はしばしば文部省からの廃止論に直面することとなった。こうした状況を打開するため、高師および茗渓会は文理大をフランスのエコール・ノルマルに範をとった師範大学に改編するようたびたび運動したが、これは研究を重視する文理大との対立を生じることとなった。また1932年(昭和7年)、高師の3年修了者にも大学進学が認められると、以降高師は文理大の予科化の傾向をたどった。
第二次世界大戦後、高師・文理大を中心にその他の教員養成機関との統合により新制大学が設置されることが決まると、新設されるべき大学におけるイニシャティヴを巡り両校の対立が再燃した。すなわち文理大が一般教養と教職的教養を両立する「文理科大学」構想を掲げたのに対し、高師は新大学を教員養成の最高機関とする「教育大学」構想を打ち出して東京農業教育専門学校・東京体育専門学校と連合、両者ともに譲らず、この抗争が新たに発足する東京教育大学の初期の大学運営に大きく影響することとなった。1949年(昭和24年)5月、新制東京教育大学の発足とともに高師は同校に包括され、1952年(昭和27年)名実ともに廃止となった。
年表
「師範学校」時代 (1872-73)
1872年(明治5年)
5月28日(旧4月22日)- 文部省、「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を正院に提出。
6月15日(旧5月10日)- 正院から認可。
7月4日(旧5月29日)- 文部省、東京に師範学校の設置を決定。
9月1日(旧7月29日)- 「師範学校」開校 (旧昌平黌の建物を転用、教師は米国人M・M・スコット、通訳は坪井玄道)
9月(旧8月)-入学試験実施。54名入学 (官費生、和漢学の素養ある20歳以上の壮者)。
小学教授法の伝習を目的とし、学力により上等生・下等生に分類。学科・課程等存在せず。
12月(旧11月)- 編輯局を設置(教科書・掛図を編纂)。
1873年(明治6年)
1月 - 「練習小学校」を附設 (4月開校:筑波大学附属小学校などの起源。以下後述)。
5月 - 寄宿舎(全寮制)を設置。
6月 - 教則改正。教授法伝習と併行に余科(初等・上等)を新設[2]、修業年限2年に。
7月 - 最初の卒業生10名。
「東京師範学校」時代 (1873-86)
1873年(明治6年)
8月 - 7大学区での官立師範学校設立に伴い、「東京師範学校」と改称。
10月 - 第2回生徒52名入学 (原則25歳以上:翌74年2月、追加募集し38名入学)。
この年 、小学教則を編纂。
1874年(明治7年)
3月 - 休日を日曜日及び祝祭日とする。
4月 - 教則改正。余科を廃し、本科・予科に改編(予め普通教育に必要な学科修了後に実地授業)。
5月18日 - 明治天皇臨幸。
7月 - 校舎を洋式に改築。
8月 - 教師スコットが満期解職。
1875年(明治8年)
3月 - 予科教則を選定(7月廃止)。本科生・予科生に分類。
7月 - 予科生を廃し、以後入学者はすべて試験生とし、学業品行を検して本科生とする。
8月13日 - 中学師範学科設置の文部省布達。
9月 - 募集年齢を18歳以上25歳以下に(のち、上限廃止)。
9月 - 学年を9月?翌年7月と定める。
1876年(明治9年)
4月 - 中学師範学科に60名入学(修業年限2年に仮定、中学教員養成の嚆矢)。