東京駅
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中央本線についても当駅が起点だが(当駅に0キロポストが設置されている)、国鉄からJRへの移行時に運輸省(当時)に提出された事業基本計画および『鉄道要覧』では、当駅 - 神田駅間は東北本線とされた。これは先行敷設路線との営業距離の重複計上を行わないためのものであり、線路は独立している。また、マルスのシステム上の経路表示においても、当駅 - 神田駅間は中央本線に含まれている。なお、同線の代々木駅 - 新宿駅間も同様の扱いである。

運転系統では、JR東日本の新幹線ホームには、以下の路線の列車が乗り入れている。

東北新幹線

北海道新幹線:当駅 - 新青森駅間で東北新幹線に乗り入れている。

山形新幹線:当駅 - 福島駅間で東北新幹線に乗り入れている。福島駅 - 新庄駅間は奥羽本線を走行する。

秋田新幹線:当駅 - 盛岡駅間で東北新幹線に乗り入れている。盛岡駅 - 大曲駅間は田沢湖線を、大曲駅 - 秋田駅間は奥羽本線をそれぞれ走行する。

上越新幹線:当駅 - 大宮駅間で東北新幹線に乗り入れている。

北陸新幹線:当駅 - 大宮駅間は東北新幹線に、大宮駅 - 高崎駅間は上越新幹線に乗り入れている。

また在来線に関しても多岐に渡る運転系統が発着する。これらの在来線各線のうち、宇都宮線高崎線常磐線京葉線武蔵野線が同一の線路を共有している。それ以外は、各系統ごとに専用の線路が割り当てられている。

東海道線駅番号「JT 01」/ 宇都宮線高崎線:駅番号「JU 01」/常磐線[※ 4]。東海道本線(および伊東線)と東北本線の列車線を走行する中距離電車および特急列車。長い間、当駅は東海道本線列車線の起点であったが、2015年3月14日より新設された「上野東京ライン」の運転系統として上野駅からの東北本線列車線が直結し、多くの列車が東北本線列車線を走行する宇都宮線・高崎線・常磐線へ直通運転をするようになった[※ 5]

京浜東北線:駅番号「JK 26」。東海道本線・東北本線の電車線を走行する近距離電車。横浜駅から根岸線磯子駅大船駅方面への直通運転も実施している。

山手線:駅番号「JY 01」。東海道本線・東北本線の電車線を走行する環状路線品川駅 - 新宿駅 - 田端駅では線路名称上の山手線を走行する。

中央線(快速):駅番号「JC 01」。中央本線の近距離電車[※ 6]。線路名称上は当駅から神田駅までの区間は東北本線となっているが、列車運行上は当駅が起点とされ、全列車が当駅に発着する。また、立川駅から青梅線青梅駅方面などとの直通運転も実施している。

横須賀線・総武線(快速):駅番号「JO 19」。両線で直通運転を実施している。特に平日の日中は横須賀線の全列車が総武快速線と直通している。当駅以南は東海道本線地下線と支線品鶴線)を経て大船駅から線路名称上の横須賀線に直通、当駅以東は総武本線を走行する[※ 7]

京葉線:駅番号「JE 01」。武蔵野線が当駅と西船橋駅の間で直通運転を実施している。

JRでは当駅を「中央駅」と位置付けており、前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代から列車の進行方向を示す「上り・下り」の基点となっていた。現在、中央本線は当駅 - 神田間は戸籍上は東北本線となっているが、起点であった当駅へ向かう列車が引き続き上りとされている。なお、「中央駅」である当駅は東京都区内および東京山手線内各駅を発着するJR線長距離乗車券運賃を算出するためのキロ数基準駅ともなっている(前者:201 km以上、後者:101 ? 200 km)。
歴史詳細は「東京駅の歴史」を参照竣工当時の東京駅(前庭より)関東大震災直後、尋ね人のビラが貼られた東京駅警備巡査派出所1968年、解体。1972年博物館明治村へ移築)丸の内側正面前で敬礼するヒトラーユーゲントの隊員(1938年)

1889年明治22年)に神戸駅まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決された(東京市街高架鉄道構想)。施工は大林組が担当。日露戦争終結後の1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年大正3年)12月20日に開業した。中央停車場は皇居の正面に設定され、東京駅と命名された。
建設

ドイツから招聘されて、日本の鉄道建設を指導していた技術者フランツ・バルツァーにより駅の位置や規模、構内の配置が決められた。駅舎は繁華街のある東側(現在の八重洲側)ではなく、陸軍の練兵場跡地だった西側(現在の丸の内側)と決まった。皇居の正面と対峙することになり、国家の象徴的な位置付けであった。プラットフォームレンガ積の高架式4面8線で、新橋駅まで複々線の高架橋が計画された。東側には貨物ヤードが置かれることになった(後に車両基地に変更)。バルツァーは日本風の駅舎を提案していたが、日本側に反対意見が多くバルツァーの構想は実現しなかった。

駅舎は辰野金吾葛西萬司が設計し、そのデザインは「辰野式ルネッサンス」と呼ばれ皇室用玄関である「天皇の駅」としてのシンボリックな意味を持たせる事になった[8][要ページ番号]。埼玉県深谷市から鉄道輸送されたレンガ[※ 8]鉄筋造り、3階建て総建坪9,545 m2・長さ330 mの豪壮華麗な洋式建築である。南北にそれぞれドーム状の屋根があり、当時は丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分けて使用されていた。中央の玄関は皇室専用とされ、規模は小さいものの、細かい装飾が各所に施されていた。中央玄関と東西の一般出入り口との間に、各1つ別の出入り口があるが、これは荷物の搬入搬出口として設けられた。開業年の1914年は第一次世界大戦の開戦の年でもあり、青島の戦いを指揮した陸軍司令官神尾光臣中将が凱旋し、皇居に参内するイベントに合わせて開業式を行った。式典では、鉄道の草創期から建設を牽引してきた大隈重信首相が演説した。

アムステルダム中央駅が当駅舎を設計する際のモデルになったという説があるが、1988年以降に藤森照信らをはじめとする西洋建築研究者により設計者の系譜や建築様式の両面から、否定的な意見も出ている[9]。辰野は英国留学の経験があり、首都ロンドンのターミナル駅を参考にした可能性もある(以降は歴史年表を参照のこと)。
発展

1919年(大正8年)3月1日に中央本線が、1925年(大正14年)11月1日に東北本線の電車線(現在の京浜東北線)が、1928年には同じく東北本線の列車線(現在の宇都宮線)が乗り入れ、翌1929年昭和4年)12月16日には東側に八重洲橋口(現在の八重洲口)が開設する[※ 9] など、徐々にターミナル駅としての体裁を整えていった。


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