東京都電車
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

当時は芝区浜松町[注釈 26] にあり、浜松町工場と称していた。元は東京電車鉄道の修理工場であり、1903年(明示36年)の開業時に前身の東京馬車鉄道の修理場を整備拡充してできたものである[162]。1920年(大正9年)10月には芝浦6号埋め立て地に芝浦支場[162]、1921年(大正10年)8月には当時の本所車庫内に本所仮工場を開設した[162]が、1923年(大正12年)の関東大震災で浜松町、本所両工場が焼失し[162]、震災後は芝浦支場に全機能が集約した。電車の修繕・改修に加え新性能車の開発やトロリーバス車両の整備も行っていた[163]が、車両工場としては1969年(昭和44年)6月に廃止され電車の整備は馬込車両工場から各電車営業所への出張工事となった[127]。工場自体は引き続き都営バスの自動車整備工場や教習所(青山から移転)として使用されたが、それも1991年7月に江東区の交通局東雲庁舎内にある都営バス深川営業所に移転し[163]、跡地は芝浦アイランドのA1 - A3地区として再開発された。
芝浦倉庫
芝区新芝町(のち港区西芝浦一丁目を経て芝浦三丁目)に立地。市電・都電の資材置き場があった。前述の芝浦の電車両工場へ向かう引き込み線は東京港口から旧海岸通りを進み竹芝橋手前で分かれ、そのまま旧海岸通りを芝浦二丁目から船路橋まで行く線の他に、竹芝橋を渡らず芝浦運河通りを行く線が存在し、鹿島橋を渡った先の交通局芝浦倉庫へ引き込まれていた。1942年敷地の一部が東京市立芝浦国民学校になった。1967年度に港区に譲渡され、廃止。1969年に隣接する港区立芝浦小学校が移転したが、同校は2011年に再移転した。跡地はムスブ田町やしばうら保育園として再開発されている。
軌間

高円寺線・荻窪線(総称して杉並線)を例外として、それ以外の全路線の軌間1372mmである。東京電車鉄道の前身である東京馬車鉄道がこの軌間を採用し、東京市街鉄道、東京電気鉄道も追随した。国際標準軌の1435mmと、国鉄在来線などのいわゆる狭軌の1067mmの中間のサイズ(どちらかというと前者に近い)であり、馬車鉄道に由来することから、馬車軌間と呼ばれることが多い。日本では、都電(旧市電)との関連からこれを選択した後述するいくつかの東京圏の例を除けば、函館市電が採用しているのみである。また、世界的にも他に採用例は少ない。

東京馬車鉄道が1882年の開業時に1372mm軌間を選んだ理由は不明である[164]。ニューヨークの馬車鉄道がかつてこの軌間を採用していたのに倣ったとする説[165] があるが、ニューヨークの馬車鉄道は当初から1372mmではなく1435mmの標準軌を採用していたためこの説は誤りだとする反論[164]がある。

現存の私鉄線では、都内に残るもう一つの軌道線である東急世田谷線(旧玉川電気鉄道、開業時は1067mm)と、軌道線として開業し、後に鉄道路線となった京王電鉄京王線(旧京王電気軌道)がある。いずれも当初、市電(都電)との乗り入れをもくろんで、選択したものであった。

のちに東京都交通局が運営する都営地下鉄新宿線は、京王線との直通運転のためにこの1372mm軌間で建設された[注釈 27]。このため、かつて都電への乗り入れを目的に軌間を都電に合わせた京王線に、新宿線が軌間を合わせるいわば逆転現象が起こっている。

過去の例としては、京浜急行電鉄(戦前、京浜電気鉄道時代の一時期、現在は標準軌)、京成電鉄(旧京成電気軌道 都営地下鉄浅草線《当時は1号線》・京急線と直通運転を行なうため標準軌に改軌する以前)、新京成電鉄(1067mm→馬車軌→標準軌と2回改軌している)、東急玉川線(大部分が廃止され、現存する東急世田谷線はその支線)・横浜市電(関東大震災により多大な被害を受けた横浜市電は急遽京王電気軌道より車両を譲り受け、車両を京王電気軌道→東京市電→京浜電気鉄道というルートで自力走行させて調達した[166])などがある。
その他の構造物など
電停標識(安全地帯用)
停留場安全地帯構造物の先端に設置されていたもの。

四角柱タイプ:戦前から設置されていたデザイン。四角柱の二面に停留場名(暗赤色地・白文字明朝体)、残り二面に地元企業・医療機関・商店などの広告が掲載されていた。上部には夜間照明用の電球を取り付ける石灯籠型のスペースがある
[167]。この形態の模造品が新宿歴史博物館に5000形の模造品と共に設置されている。

安全地帯標識兼用タイプ:安全地帯を示す道路標識(英文付記タイプ)の下に停留場名称を横書きで示したデザイン。広告スペースなし、上部に電球2灯つき。自動車視認用として、軌道と垂直に設置されていた[168]

時計つき電飾タイプ:薄緑色の棒状デザイン。上部に時計を搭載しているため先端が丸く、「しらゆり型」と称されるバス停留所標識に類似した形状。内部に蛍光灯を取り付けるスペースがあり、停留場名称(暗赤色地・白文字明朝体)および広告を記したアクリル板を内側から照射できる。時計部分も同様に蛍光灯で文字板を照らすことができる。四角柱タイプ・安全地帯標識兼用タイプからの交換などにより、都電撤去計画開始時点では安全地帯のある電停の多くに設置されていたが、荒川線のみの営業とされた後、ワンマン化に伴う電停改修で一旦姿を消した[注釈 28]。2007年に三ノ輪橋停留場のリニューアルに際して復元されたほか、2008年にリニューアルされた庚申塚停留場や、荒川車庫に隣接する「都電おもいで広場」、あらかわ遊園の6152号、江戸東京たてもの園の7514号周囲にもそれぞれ建てられている。

電停標識(電柱用)
安全地帯を有する停留場ではそこまで渡る横断歩道付近、安全地帯のない停留場では電車停止位置付近の歩道電柱に設置されていたもの。改称前の旧停留場名称や近隣の名所などを副名称として小さく併記する場合もあった。(例)大和町(富士見通)、上富士前町(六義園前)

電柱上部掲示用:暗赤色地・白文字明朝体の長方形板状標識。下部に広告掲載スペースを有する。

電柱下部掲示用:弘亜社製作による琺瑯製看板。白地に濃紺色文字。軌道に面して掲示するタイプ(乗客乗員視認用)は隣接停留場名称を左右に小さく表示して、赤色の短い矢印を隣接停留場名称の上に配していた。軌道と垂直に掲示するタイプ(歩行者視認用)は当該停留場名称のみを表示。全国主要都市(札幌市電仙台市電横浜市電名古屋市電京都市電大阪市電神戸市電広島電鉄西鉄福岡市内線など)で同形式の標識が採用されていた。このタイプの標識の下には広告・交通安全標語・乗降時の注意喚起・系統案内・乗車運賃案内・始発終車時刻などを掲載した小型の琺瑯板が併設される場合が多かった。

信号塔
分岐点などがある交差点角に設置された建物。中に分岐器の操作を行う装置が設けられ、テコとチェーンで結んで操作した。のち分岐器は架線に設置されたスイッチにビューゲルが接触して切り替えることで自動化されたが、多くの信号塔は廃線まで存置されていた。
都電が登場する作品

ドラマ

パパと呼ばないで1972年) - 高橋線(23系統)沿線(中央区佃)が舞台。同線は放送期間中に廃止されており、第10話作中でこの件の描写がなされた。

水もれ甲介1974年) - 荒川線沿線の鬼子母神前 - 雑司ヶ谷(現・都電雑司ヶ谷)間付近が舞台。


漫画

三丁目の夕日(夕焼けの詩、西岸良平) - 第17集「都電通り」、第47集「追憶」など。

映画 - ALWAYS 三丁目の夕日ALWAYS 続・三丁目の夕日


こちら葛飾区亀有公園前派出所秋本治) - 第26巻「ガンコ電車の巻」(荒川線)、第154巻「東京中に都電のいた頃の巻(上・下)」など。

名物!たびてつ友の会山口よしのぶ) - 会報71「東京下町散歩」(荒川線)

でんしゃ通り一丁目池田邦彦) - 昭和30年代の都電が舞台の作品。

サザエさん長谷川町子) - 1968年9月20日『朝日新聞』朝刊社会面など。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:323 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef