ところが東京では1893年(明治26年)から1899年(明治32年)の6年間で35社もの出願が相次ぎ、特許権獲得をめぐって対立しあっていた[10][11][12]。特に有力な出願者だった東京馬車鉄道、雨宮敬次郎らの東京電車鉄道、藤山雷太らの東京電気鉄道、利光鶴松らの東京自動鉄道の4社の対立は激しく、許認可が自由党と進歩党の政争の具にされたり、電車を民営とするか市営とするかで東京市会や市参事会が紛糾するなど、大きな混乱が生じた[10][11][12][13]。また当時東京市内の都市計画を担っていた東京市区改正委員会が電気鉄道の敷設条件について介入[注釈 7]したことも混乱に拍車をかけた[10][11][12]。デモ運転から10年が過ぎた1900年(明治33年)、紆余曲折の末内務省は東京電車鉄道、東京電気鉄道、東京自動鉄道の3派が合同して組織した東京市街鉄道、岡田治衛武[注釈 8]らが四谷信濃町 - 青山 - 渋谷 - 池上 - 川崎間などの路線を計画して設立した川崎電気鉄道、そして既設の東京馬車鉄道の3社に対して特許を与えた[10][11][12][13]。 3社のうちまず最初に開業したのは東京馬車鉄道から改称した東京電車鉄道(通称:電車[15]、東電[15]、電鉄[16]。前節の東京電車鉄道とは別会社)で、1903年(明治36年)8月22日に馬車鉄道線のうち品川 - 新橋間を電化して三重県の宮川電気線[注釈 9] に次ぐ日本8番目の電気鉄道となった[4][13]。運転未熟と軌道に石が入るなどで終点まで約1時間30分を要し(3銭。乗客8872人)、11月25日上野まで開通した[17][18]。東京電車鉄道は1904年(明治37年)3月までに全ての路線を電化し、馬車鉄道の運行を廃止した[13]。 東京電車鉄道に遅れること25日後の1903年9月15日には東京市街鉄道(通称:街鉄[15][16])が数寄屋橋 - 神田橋間で開業した[13]。その後同社は同年11月に日比谷 - 半蔵門間、12月には神田橋 - 両国、半蔵門 - 新宿間などを開業させていき、営業キロや乗客数、運賃収入などの面において3社中最大の会社となった[13][19]。 1900年に川崎電気鉄道から改称した東京電気鉄道(通称:外濠線[16]、電気[15])は、1904年12月8日に土橋[注釈 10] - 御茶ノ水橋間で開業し、その後皇居外堀に沿って飯田橋、四谷、赤坂などを経由し土橋に戻る環状線を建設した[13][15]。 この様に、東京市内の路面電車は3つの会社によって別々に整備された。だが市民にしてみれば、こうした状況は電車を乗り換える度に運賃が嵩む[注釈 11] 不便さがあり、次第に運賃の共通化を求める声が大きくなった[19]。一方各社の経営陣は、当時日露戦争の戦費調達を目的に通行税が新設されたこと、また内務省の要請で運賃の早朝割引を開始したことなどが経営の負担になっているとして運賃の値上げを計画しており、1906年(明治39年)には利用者の要望に応えるという建前で運賃の共通化と同時に値上げを申請していた[19]。そして同年9月11日に3社が合併して東京鉄道(通称:東鉄)を設立すると、翌12日には運賃を4銭均一に引き上げた[19]。しかし日露戦争に伴う増税や物価高が負担になっているのは市民も同じであり[注釈 12]、合併と値上げが認可された直後から激しい反対運動が起こり、同年9月5日には日比谷公園で開かれた集会の参加者が暴徒化して電車が投石される事件まで発生した(詳細は東京市内電車値上げ反対運動を参照)[19][20]。 折しも当時は1903年に大阪市が市営電車を開業したことで電車事業の公益性が意識され始めた時期で、この一件をきっかけに東京でも電車の市有市営を求める世論が高まった[20]。
東京市電の誕生