東京都立日比谷高等学校
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^ 東京府第一中学設立の背景には、まず第一に、小学校年限の短縮によって小学校卒業生増加が予想されたこと、第二に、以上の理由があったとされている。『明治前期中学校形成史 府県別編I』(神辺靖光)pp.129-131 を参照。
^ それまで東京には漢学塾洋学校も含めた各種学校が日本全国の30%に当たる565校もあり、当時の各種学校には、進学(受験)予備校としては、慶應義塾内に設けられた三田英学校(錦城中学)、英吉利法律学校中央大学)と同所同年月日に設けられた東京英語学校(日本中学)、廃校同様のところ1878年以降高橋是清らが進学予備校として復興させた共立学校(開成中学)、夏目漱石も受験英語を学んだ成立学舎、明治半ば以降一中と一高合格者数を競った獨逸学協会学校(獨協中学)などがあり、漢学塾としては二松學舍、宗教系としては青山学院、軍関係としては本郷区西片町にあった陸軍有斐学校(麹町区三番町の温知塾共々、後に陸軍の要請により成城学校に一本化)の他、明治初期までは攻玉塾(攻玉社)が知られ、その後成城学校や海軍予備校(海城)などが設けられた。その他に慶應義塾などがあった。『明治前期中学校形成史 府県別編I』(神辺靖光)pp.222-235 などを参照。
^ 記録上はっきりせず、官立高等諸学校への入学が官公立尋常中学校卒業者等に限定せず在野の進学予備校ないし予備学校(私立学校)出身者にも広く認められた1898年(明治31年)以降では、明治後半から末期にかけて、1907年(明治40年)あたりからという見方もある。
^ 1891年(明治24年)の中学校令改正により、当時の澤柳政太郎文部次官は官立高等諸学校への入学を官公立尋常中学校卒業者に限定し、予備学校(私立学校)には認めなかった。そのため今度は,東京では官立高等諸学校と連絡(推薦)があった東京府尋常中学への連絡の請願が郁文館や攻玉社はじめ私立諸校から殺到した。のちの1898年(明治31年)に連絡は廃止され、官立高等諸学校は同一条件の入学試験に変更された。詳細については 武石典史「明治前期東京における中等教育の趨勢 : 伝統学知から近代学知へ」『東京大学大学院教育学研究科紀要』第45巻、東京大学大学院教育学研究科、2006年3月10日、93-94頁、2019年2月26日閲覧。 
^ 『東京府立中学』(岡田孝一)pp.156-158、『麻布中学と江原素六』(川又一英、新潮新書、2003年)P149、P162?P164、『東京府立第一中学校』(須藤直勝、近代文藝社、1994年9月)P170 などを参照。また一例として、一中、一高を経て東大へ入った者は、東大の学帽に、右に一高の柏の徽章、左に一中の桜の徽章を付けた例も普通に見られた。『日比谷高校百年の歩み』(都立日比谷高校編、1978年)1939年卒森村太華生の寄稿文、『東京府立第一中学校』(須藤直勝)P165 などを参照。
^ その間の経緯については、「勝浦鞆雄」にて若干触れている。
世界大百科事典(旧版、平凡社)内の韓国皇室特派留学生の言及『韓国皇室特派留学生』 - コトバンク も参照。
^ 学者官吏などにならず、漱石や谷崎潤一郎などに代表される文学や芸術方面に傾倒・耽溺していった、今でいうフリーターニートに近い生活を送っていたボヘミアン(ないし高等遊民)の一群を総じて「一中くずれ」とも称して、戦前は肩身の狭い思いをしていたこともあったが、戦後に価値観が一変してからは如蘭大会に名士として積極的に招かれていた。『尋中一中日比谷高校八十年の回想』(如蘭会編、1958年9月)P212 千田是也の寄稿文、同 P186 週刊朝日誌上の臼井吉見の評論について触れた寄稿文などを参照。
^ 『東京府立第一中学校』(須藤直勝)P50、P36 など、『東京府立中学』(岡田孝一)P31?、『麻布中学と江原素六』(川又一英)pp.147-150 などを参照。
^ 『麻布中学と江原素六』(川又一英)P149 などを参照。
^ 『断じて府立へは入れない 上』東京朝日新聞1927年3月30日付朝刊5面、『断じて府立へは入れない 下』同1927年3月31日付朝刊5面
^ 『日比谷高校百年史 上巻』(如蘭会編、1979年)pp.126-127、『東京府立中学』(岡田孝一)P159を参照。ただし、これら百年史等にはそう記述されているが、実際には1894年(明治27年)に既に一中に補習科が設置されており、程なくして四中、三中二中にも設置された。詳細については吉野剛弘 (2008年). “受験準備教育機関としての旧制中学校の補習科 : 東京府立中学校を事例として”. 慶應義塾大学大学院社会学研究科. p. 17. 2021年5月4日閲覧。
^ 『日比谷高校百年史 上巻』(如蘭会編)pp.144-145、『東京府立中学』(岡田孝一)P159 を参照。
^ たとえば、『尋中一中日比谷高校八十年の回想』(如蘭会編)pp.337-340や、『激浪猛威振ふとも』(東京府立一中六十七回生編、1995年5月)P176 を見ても、過去には内申点・面接のみで入学してきた1940年入学生の存在が、騒動の末に時の西村房太郎校長辞任を生んだことに対する当該卒業生の率直な心情の吐露も見受けられる。さらに学校群など一連の制度改定以降、その他都立主要校と比較して、東大合格者数をより大きく減らしてきたのも、この学校の成り立ち・経緯から見てそれも致し方ないが、内外の趨勢・期待・批評あるいは広告媒体を通じた宣伝マスメディア自体の煽情性、ないしマスメディアによる刷り込みあるいは印象操作世論形成を背景にした時代空気(ないし時代精神)に学校全体の士気(モラール)が過敏に一喜一憂し、翻弄されてしまう学校気質が見せる脆弱性に起因することも『帰らぬ日遠い昔』(林望、講談社、1992年)はじめ、『むかし〈都立高校〉があった』(奥武則、平凡社、2004年)、『亡国の中学受験』(瀬川松子、光文社新書、2009年)や、改革期の同校学校長であった長澤直臣などの一般書籍にもそうした指摘や趣旨を汲み取れるものがある。
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