東京都立日比谷高等学校
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それまで私立校(今でいう塾・予備校に近似)の後塵を拝していた進学実績は伸びることとなり、明治半ばから後半にかけて[14]、一躍一高合格者数で首位に踊り出した[15]。すでにその名は全国に知れ渡っていたが、この頃から一高 - 帝大への一貫ルートとして名実共に世間に認知された。ただ、一高を目指す風潮が強い余り、旧制高校への現役合格者数全体で見た場合、特に昭和の時代に入ってから四中(戸山)等に及ばないことも見られるなど、伝統的にガツガツした面とは無縁である一方で、このように一高への執着が強かったことも権威主義的である一面として見られた[16]。また、1904年11月、韓国から皇室特派留学生を受け入れた[17]第10代川田正澂校長(1929年撮影)

1909年川田正澂(第10代、前:仙台一中(現:仙台一高)校長)が校長に就任すると、後の時代にかけて連綿と続くリベラルと譬えられる校風が花開き、政治・経済方面は言うに及ばず文学・芸術方面に至るまで各界に異色な人材を輩出してゆく基盤が形成されていった[18][19]。もっとも世間の詰込学校、あるいは規則学校という風評通り官僚的な、厳格な校風で成績にもうるさく[20]、たとえば、当時顕在化し始めた都市部の中学の入学難を背景に“試験地獄”“釜茹での試験”などの文字が新聞紙面を躍る中、戸川秋骨東京朝日新聞に寄稿した『断じて府立へは入れない』において、一中と四中の勉学のみならず素行点も含めた厳格な校則を批判した[21]。この頃(1922年〈大正11年〉)、主に卒業生を対象に補習科が設けられた[22]。引き続き1923年4月には、一高入学試験で独語受験者の優先入学規定が廃止されたこともあって、一中でも独語学級を廃止した[23]

1940年より学区制が施行され、その年のみ、筆記なしの口頭試問と内申点のみの入試が導入された[24]。1943年(昭和18年)、中等学校令施行により、この年の入学生から修業年限が5年→4年に短縮。1945年(昭和20年)3月、教育ニ関スル戦時非常措置方策により、1941年(昭和16年)入学生から修業年限4年の施行が前倒しされた。さらに、「決戦教育措置要綱」および戦時教育令により、1945年(昭和20年)4月から1年間学校の授業は原則停止され、学徒勤労動員が強化された。1945年3月の入試は受験者数が定員に満たず、全員合格した。
戦後

戦後の学制改革を経て、都立一高、さらに現在の日比谷高校に改称した(1950年より男女共学となる)。旧制中学の前半に当たる部分(2年・3年次)を新制新星中学校(のちの港区立青山中学校)として同校内に設置、その過渡期の3年間、日比谷高校の入学試験は実施されなかった。

1947年、新制高校の教科課程について菊地龍道校長は生徒自治委員会にも提案を募り、1950年発表授業に合わせて一コマを百分授業とし、生徒がルーム(クラス)担任を選ぶ「旗立て方式」の学年別ルーム制(R制)が確立[25]。その後は、近隣の千代田区立麹町中学校九段中学校一橋中学校等を中心に日比谷志願の越境通学者が全国から押し寄せ、受験過熱化とともに東大ひいては権勢への登竜門として位置付けられることになる[26][27]。同様に、これらの中学校を学区指定の進学先とする千代田区立番町小学校・麹町小学校・永田町小学校等を中心に多くの越境通学者が集まった[28][29]在校生の74%が学校群制度に反対であることを伝える校内新聞(1966年9月1日発行)

1965年に入ると、戦後民主主義の時代風潮や学園紛争[30]の世相を反映して[26]、進学指導を中止する「小尾通達」が申渡され、補習科の廃止や進学指導を自粛する動きが広まり教育内容面で大きな変化が起こった。1967年には従来の学区合同選抜制度を廃止して学校群制度を導入、三田九段と3校群を形成した。この制度により、受験者は限られたため志願者層が変化し、都立諸高の平準化と国私立難関校への流出をもたらした。日比谷は東大合格者数首位の座を失い、同じ都立校である西・戸山などと比較しても急速に東大合格者数上位校からその名が消えた[31]1982年からはグループ合同選抜制度を導入しても、その後の日比谷を含む都立高は、私立進学高に対して入試問題の難易度、カリキュラム、そして大学合格実績やその他取り組みを含めた制度や機能の面、あるいはブランディングで差別化や特色を生み出せなかった。


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