東京都区部
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都道府県庁所在地として表記する際は「東京」と記載される[5][6]
概説
成立の経緯

第二次世界大戦下、首都行政機能を強化する目的から、東京府東京市を統合して東京都が成立したのは1943年昭和18年)のことである[7]。当時の区の数は35区だったが、1947年(昭和22年)3月に35区のうち24区を11区に再編して22区となり、同年8月に板橋区から練馬区を分区して23区となった。
面積、人口、人口密度

東京都区部(東京23区)の面積は627.53km2(2022年1月1日時点)。

現在の人口は、住民基本台帳によると東京都区部(東京23区)の人口の合計は985万人(2024年5月1日時点)。 (同時期の東京都全体は1417万人なので)東京都のおよそ70%の人が23区に住んでいることになる。東京23区の人口だけで、都道府県として第2位に位置する神奈川県全体の人口(約920万人)を上回っている。人口密度は約1.5万人/km2。

1920年(大正9年)時点で東京都区部の人口がどのような状況であったかを説明するためにいくつか例を挙げると、台東区が人口第1位の43万9596人、世田谷区は3万9952人であった。高度経済成長期の1965年(昭和40年)に約889万人(国勢調査人口)でいったん最大となったあと、郊外化で減少に転じ、特にバブル景気に伴う地価の高騰によって1990年代には800万人を割り込んだ(参照)。その後は都心回帰現象などにより、現在では約960万人にまで再び増加し、東京都の人口の約69%を占めるまでに至った。「#人口の変遷」を参照

東京都区部の人口は、そこを仮に一種の「一つの自治体」と見なした場合、日本でもっとも多く、2位の横浜市と比較しても約2.6倍もの人口規模である。

なお、昼間人口では、1980年代末のバブル景気期に約1129万人で最大となり、失われた10年の間は減少していたが、その後は増加してバブル期並みとなっている(参照)。昼間人口に比べ夜間人口はずっと少ない。23区の外の区域が巨大なベッドタウンとなっており、昼間に仕事をするためにその区域の人々が23区に移動してきている。

23区の中でも、特に中心あたりの区、いわゆる「都心」の区は、主に中心業務地区に利用されているため、基本的にはほとんどがいわゆる「仕事場」「職場」「オフィス」「店舗」などであり、居住地が少なく、人口も少ない(「都心」というやや曖昧な概念については「#都心と副都心」の節で詳説)。また、地価が高いだけでなく、面積が狭いことも人口の少ない要因のひとつである。周辺の区ほど人口が多いが、面積最大の大田区より面積第2位の世田谷区の方が人口は多く(大田区は羽田空港の沖合展開による埋め立ての結果、世田谷区を抜き最大の区となった)、面積第5位の練馬区は人口第2位である。東京湾沿岸の区は、東京港港湾施設や広大な工場・流通地区を持つため、内陸の周辺区よりも人口密度が低いが、江東区などは超高層住宅の建設が進められており、一部そうでもない場所もある。23区内の新築マンション(70m2)の平均価格は8,116万円(東京カンティ調査)となっている。
行政上の特徴と関連法規

地方自治法第3編「特別地方公共団体」第2章「特別区」(第281条から第283条)の規定に基づき運営されており、区議会を持ちつつも、区の管理・運営業務の一部はが行っている。国の行政機関や各省大臣が助言や勧告を行うことができる普通地方公共団体とは異なり、特別区の運営について助言および勧告をすることができるのは都知事のみであり、または特別区財政調整交付金に関する事項については総務大臣のみである。都と特別区および特別区相互の間の連絡調整を図るため、都区協議会が設けられている。

市町村よりも権限が小さく、通常市町村が手がける水道業務や消防などは東京都が行っている(東京都水道局東京消防庁[7]
課題

財政をはじめとして、独立性は低いものの議員や職員数は多く、現在23区の職員数は合計で6万2000人、区議会議員数は約900人に上り、それらの人件費は年間6000億円超となっていることも問題視されている。23区についてはこれらの非合理や効率の悪さから、再編を求める意見もある[7]。「東京」も参照
その他 

JR(旧国鉄)では、旅客営業規則を定めており、その中に「特定都区市内」制度がある。これは、特定の都市での運賃計算の特例の事であるが、札幌市名古屋市京都市大阪市福岡市など10都市に加え、東京都区部を1つの都市として数えて定めている。対象駅の駅名標には大阪市なら「阪」、京都市なら「京」と表記され、東京都区部は「区」と表記される。
歴史「東京市」および「東京15区」も参照

江戸時代江戸の市域は、「朱引」と呼ばれ、その範囲は「朱引線」によって明示されていた。

明治2年2月19日(1869年)、江戸に代わった東京府は、新たな朱引を定めた。これは皇居を中心とし、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めるものであった[8]。同年3月16日には、朱引内に50区の区画が制定され(五十番組制、五十区制)、さらに明治4年6月(1871年)にはその範囲が縮小されて44区に再編成された(朱引内四十四区制)[8]

1878年(明治11年)、郡区町村編制法が制定され、宮城(皇居)周辺の都心部に、麹町区神田区日本橋区など15区が定められた。1889年(明治22年)には、この15区に市制が施行され、東京市となる。明治時代には、およそ明治通りの内側が東京市とされ、外側は南豊島郡渋谷村などの町村であった[注 3]。このときの東京市は、現在の千代田区中央区港区文京区台東区の全域、および新宿区墨田区江東区の各一部を範囲としていた。

1920年(大正9年)、豊多摩郡の1町を編入。1932年(昭和7年)、近隣5郡(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡南足立郡南葛飾郡)の60町22村を編入し、面積・人口が一気に拡大した。このとき、既存の15区に加えて、新たに20区が定められ、35区となった。1936年(昭和11年)、北多摩郡の2村を編入し、現在の東京都区部の区域となった。1943年(昭和18年)には東京都制が施行されて東京府および東京市は廃止され、35区は東京都の行政区となった。

1947年(昭和22年)の地方自治法施行直前の3月15日に35区は再編され、22区になり、5月3日の地方自治法施行により特別区に移行した。さらに同年8月1日に練馬区が板橋区より分離し現在の23区となった。制度創設から長らく、特別区は東京都の内部的団体と位置づけられ、日本国憲法93条2項の「地方公共団体」にあたらないと解されてきた[9]。しかし、2000年(平成12年)の地方分権改革により、特別区は「基礎的な地方公共団体」と規定され、名実ともに独立した地方公共団体となった。
地理
気候

千代田区
雨温図説明

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気温(°C)
総降水量(mm)
出典:気象庁 千代田区 平年値(年・月ごとの値)


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