東京都の歴史
[Wikipedia|▼Menu]
明治維新から第二次世界大戦まで

1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)の徳川慶喜による大政奉還1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)の王政復古クーデターによって江戸幕府が崩壊し、同年5月3日(慶応4年(明治元年)旧暦4月11日)の江戸城開城によって江戸は新政府の支配下に入った。7月1日旧暦5月12日)、新政府は江戸府を設置し[1] [2] [3]9月3日旧暦7月17日)に江戸が東亰(後に東京)と改称されると[4] [5]、江戸府も東京府と改称された[1] [6]1869年明治天皇皇居(東京城、旧江戸城)に入ると、東京は近代日本の事実上の首都となった(東京を首都とする法的根拠はないとする意見もある。東京奠都を参照)。

1868年(明治元年旧暦5月19日)に寺社奉行町奉行勘定奉行を廃止して社寺裁判所、市政裁判所、民政裁判所を設け[7] [6] [8]、南町奉行所は南市政裁判所、北町奉行所は北市政裁判所と改めた[9] [10]。同年(旧暦7月17日)に市政裁判所を廃止して東京府を置くことになり[11] [12]、南北市政裁判所は合併し[9]、同年(旧暦8月17日)に東京府幸橋御門内(現在の東京都千代田区内幸町1丁目)の旧郡山藩柳沢家上屋敷を東京府庁にあてた[9] [13]。改装工事のため南裁判所で府庁の事務を開始し[9]、同年(9月2日)にすべての業務が南裁判所から府庁へ移された[9] [13]。東京には全国から新政府に仕える人々が集まり、多くは皇居周辺(後世の山手線内側)に住んだ。これが山の手族の起源である。また、築地には外国人居留地が設けられ、銀座には西洋風の煉瓦街が作られて、文明開化が進んだ。

廃藩置県後の1871年12月25日(明治4年11月14日)、東京府のほか現在の関東地方に存在していた各県が廃止され、武蔵国荏原郡豊島郡、および足立郡葛飾郡のそれぞれ一部を管轄区域とする東京府が改めて設置されることとなった。このとき旧来の東京府の区域については6大区の下に97小区を置く「大区小区制」が敷かれ、一方廃止された品川県浦和県小菅県、および世田谷に飛地を有していた長浜県からの行政の移管は半年ほどかけて順次行い、旧県時代の区割りのままとした。この際に神奈川県の管轄となった多摩郡のうち、現在の中野区、杉並区の区域が翌1872年(明治5年)東京府に移管され、管轄区域は現在の東京都区部(23区)のうち世田谷区西部(後の砧村及び千歳村)を除いた区域となった。その後1873年(明治6年)3月18日に大区小区の区割りが全域一貫したものとなり、総計11大区103小区となった。

1878年(明治11年)郡区町村編制法に基づき、東京府管下の中心部市街地に麹町区以下の15区が、同年11月2日に編成された。市街地に隣接する区域は荏原郡東多摩郡南豊島郡北豊島郡南足立郡南葛飾郡の6郡に編成される。(このうち、東多摩郡と南豊島郡は1896年(明治29年)4月に合併されて豊多摩郡となった。)また、同年1月11日より、伊豆諸島が東京府の管轄となった[14]1889年(明治22年)5月1日市制特例による特別市制により東京市が発足し、1899年(明治32年)10月1日には、市制特例を廃止し、東京市は一般市制による一般市となった。1893年(明治26年)4月1日、神奈川県に属していた三多摩を東京府に編入した。

大正期に入ると、東京市への人口流入は更に進み、1920年の人口は370万人になったが、1923年(大正13年)9月1日には関東大震災に襲われ、特に下町が大打撃を受け、一時、明治時代に明治政府による藩債処分により大打撃を受けた面積が半分程度の大阪市の人口が東京市を抜くことにもなった。近衛文麿政権以後の政権は、戦時体制を敷いて、経済・産業・文化・芸術・教育、その他あらゆる分野の中枢を東京に集めた。

三多摩にも市ができた。1917年(大正6年)、東京府南多摩郡八王子町は市制を施行し、東京府八王子市となった。原内閣郡制廃止後の1940年昭和15年)、東京府北多摩郡立川町が市となり、東京府立川市となった。この時点で、東京府には、東京府東京市と八王子市と立川市の3市があった。

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日には、東京市と東京府は廃止され、東京都が設置された。初代東京都長官は、内務省出身の大達茂雄であった。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日には東京大空襲によって下町を中心に甚大な被害を受け、都庁舎も失った。その後の空襲による被害もあわせて、市街地の多くが焼け野原と化した。また、小笠原諸島硫黄島では地上戦が行われ、日米両軍が多大な犠牲を払った戦いとなった[15]。第二次世界大戦の終結により、旧日本軍の基地や施設は、連合国軍に順次接収された。208ヶ所あった都内の米軍基地は、多年にわたる取組みの歴史を経て、現在は8ヶ所になっている。
年表
古代武蔵国の位置


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:83 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef