創立委員として大倉の友人である石黒忠悳(大倉商業学校と大倉高商で理事・督長を歴任)・渡邊洪基(大倉商業学校の督長を歴任)・渋沢栄一が参画し、1919年には旧制専門学校の大倉高等商業学校(大倉高商)を開校。1946年には大倉経済専門学校(大倉経専)として現在の国分寺キャンパスに移転、その3年後に大学に昇格[2]。
創立時の所在地は、大倉喜八郎の邸宅(現在はホテルオークラ、大倉集古館が建つ)の隣接地であった東京市赤坂区葵町(現・港区虎ノ門)であった[3]。しかし空襲による校舎焼失により、1946年1月20日に現在のキャンパスがある国分寺へ移転する。なおこの国分寺の土地は大倉財閥系列企業であった中央工業(新中央工業の前身)所有の土地であり、赤坂の校地との引き換えによって取得したものである[4]。赤坂葵町の校地には現在、虎ノ門ツインビルディング(旧新日鉱ビル)が建設されており、ビル敷地内の緑地には創学の碑がある[5]。
11万人近い[6]卒業生がおり、経済界をはじめとして政治・会計・ジャーナリズム・芸能・スポーツなどのさまざまな分野に人材を輩出している。[7][出典無効]。
建学の理念
進一層 (Forward Forever)[1]
責任と信用 (Be Honest and Responsible Citizens)[1]
「責任と信用」については、大倉喜八郎の1928年1月9日の始業式での訓話を元にしている[1]。凡そ、何事を為すにも、最も大切なのは信用である。信用の無い人間は首の無い人間の様なもので、人間として少しの値打ちもありません。自分の仕事に対して責任を重んじ、一旦口で言ったことは必ず実行する、約束した以上は決して違はないといふことが、土台となって、夫れから信用が生まれ出るのであります。
沿革「大倉高等商業学校」も参照
年表港区虎ノ門の東京経済大学発祥の地碑
1900年 - 大倉商業学校創立(修業年限 予科2年・本科4年)[2]。
1919年 - 大倉高等商業学校へ昇格[2]。
1944年 - 大倉経済専門学校に改称[2]。
1946年 - 東京都赤坂区葵町から国分寺町へ移転[2]。
1949年 - 新制東京経済大学発足、第一学部(経済学科・商学科)、第二学部(経済学科・商学科)を設置[2]。
1950年 - 短期大学部商経科を設置[2]。
1951年 - 旧制大倉経済専門学校廃止[8]。
1964年 - 経営学部経営学科を設置[2]。公認会計士・税理士コースを開設。
1970年 - 大学院開設[2]。
1995年 - コミュニケーション学部を設置(日本初)[2]。多摩アカデミックコンソーシアム(多摩地区大学協力機構、略称TAC)を結成[2]。
2000年 - 創立100周年。現代法学部を設置[2]。
2001年 - 経済学部第二部、経営学部第二部の学生募集を停止。
2004年 - 大学院コミュニケーション学博士課程で日本初のコミュニケーション学博士が誕生[9]。「21世紀教養プログラム」を設置[2]。短期大学部廃止[2]。
2007年 - 経済学部第二部、経営学部第二部を廃止。「東経大チャレンジシステム」(文部科学省「学生支援GP」)開始[2]。