東京理科大学
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2023年時点、日本の私立大学として唯一、ノーベル賞受賞者(2015年ノーベル生理学・医学賞大村智)を出した大学である[6]。また、自然科学部門のノーベル賞受賞者を出したのは、同年時点、アジアの私立大学として唯一でもある[7]。ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村博士の栄誉を称え、東京理科大学は2015年度、寄付されたノーベル賞の賞金を元に「東京理科大学大村賞」を創設している[広報 3]

THE世界大学ランキング2021」によると、「研究力」において、慶應義塾大学早稲田大学に続いて、国内私立大学3位の評価を得ている[8]
沿革「東京物理学校」も参照
略歴櫻井房記(東京物理学講習所初代校主)寺尾寿(東京物理学校初代校長)東京都千代田区飯田橋にある「東京理科大学 発祥の地」の碑

文明開化の当時、欧米から入ってきた学問に感化され、欧米の学問に習って多くの学問所が誕生した。しかし、当時の学問所の多くは政治・経済・法律などを扱うものが多く、国家の発展の為には欧米のように理学の普及が不可欠だと考えた東京大学[注釈 1]仏語物理学科を卒業した21名の青年理学櫻井房記高野瀬宗則千本福隆中村精男中村恭平小林有也寺尾寿保田棟太桐山篤三郎信谷定爾谷田部梅吉加瀬代助赤木周行三守守難波正和田雄治沢野忠基三輪桓一郎名村程三鮫島晋豊田周衛)は、1881年9月11日に「理学の普及を以って国運発展の基礎と成す」の信念の下、東京物理学講習所を麹町区飯田町四丁目1番地(現在の千代田区飯田橋二丁目1番地から九段北一丁目6番地周辺、九段下)の私立稚松(わかまつ)小学校の一部を借りて設立する。

設立当時、授業は夜間に行われていた。実験機材は創立者21名の母校である東京大学から講義の度に借り入れ、終了後に返却していた。創立者達はノブレス・オブリージュの精神で、仕事の傍ら無給で学生の指導に当たった。

1885年には財政が窮地に陥るも、創立者21名のうち16名(高野、千本、中村精男、中村恭平、寺尾、保田、桐山、信谷、谷田部、三守、難波、和田、三輪、名村、鮫島)が「維持同盟規則」(一人30円の寄付と週2回の無償講義、教師が都合で講義に出られない時は理由を問わず25を払うという決まり)を結び、この場を凌ぐ。

当初は移転を繰り返し、1886年11月に、神田小川町1番地の仏文会校舎へ移り、神楽坂に移るまで約20年間置かれた。夏目漱石坊つちやん』の主人公が通ったのは、この校舎である。

夜間部として理学部第二部があり、夜学として創立した本学を象徴する学部である。
年表
明治

1881年明治14年)

6月13日 - 「東京物理学講習所」設立広告を『郵便報知新聞』へ掲載[9]

9月11日 - 東京物理学講習所を、私立稚松(わかまつ)小学校(麹町区飯田町四丁目1番地)内に設立。

年末 - 大蔵省官吏簿記講習所(神田区錦町一丁目)へ移転。


1882年(明治15年)

進文学舎(本郷区元町二丁目)へ移転。

11月 - 神田区今川小路三丁目9番地(現:神田神保町三丁目)に校舎取得し、教員一同が土地所有者となる。


1883年(明治16年)9月 - 「東京物理学校」と改称し、創立者の一人寺尾寿が初代校長に就任。

1884年(明治17年) 9月15日 - 台風により校舎が倒壊。まもなく、共立統計学校(九段下牛ケ淵)の校舎にて授業再開。

1885年(明治18年) - 維持同盟規則を結ぶ。

1886年(明治19年)

9月 - 成立学舎(神田区駿河台淡路町)へ移転。指導科目に化学を追加したところ、化学は火災の危険があるとの理由で退去を迫られたため。

11月 - 東京仏学校校舎(神田小川町1番地、現:千代田区神田小川町二丁目)へ移転。この校舎は、東京法学校(現:法政大学)が所有するレンガ造りの旧勧工場の建物で、これを仏学会が借り[10]、さらに仏学会から本校が夜間のみ借りる転貸借によって[10]、昼間は東京仏学校が、夜間は本校が使用していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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