小原時代の東京毎日新聞は「我等は正義の味方也」というモットーを紙面や広告で標榜し[2][10][5][6][1][11]、大杉栄を執筆者に迎える[5][6][1]など、「正義の味方、労働者の味方」[6]という思想的立場を取っていた。しかし新聞印刷工組合の正進会による新聞各社での労働争議(正進会争議)が自社に及ぶと、正進会に加入していた社員を解雇して社内での労働運動を弾圧したため[1][6]、正進会の上部団体である労働組合同盟会から看板を偽る背信行為として非難された[6][1][11]。
1923年(大正12年)の関東大震災で本紙は大きな被害を受け、所有権は小原から千葉博巳に移った[1]。東京・内幸町の本社は三菱合資(現・三菱地所)を通じて、大阪ビルヂング社(現・ダイビル)の手に渡り、同じ麹町区の省電有楽町駅前にあった報知社本社(現・読売会館)内に移転して発行を続けた。詳細は「日比谷ダイビル#建設の経緯」を参照
1940年(昭和15年)11月30日、野依秀市経営の『帝都日日新聞』に吸収合併され[1]、日本初の日刊紙であった本紙の題号は消滅した。これにより、東京で『毎日』と名乗る日刊一般紙が無くなったため、大阪毎日新聞社は東京日日新聞の題号を統一することにし、全国紙『毎日新聞』が誕生するという皮肉な結果になった。詳細は「毎日新聞#題字と地紋など」および「東京日日新聞#題字」を参照 東京毎日を合併した帝都日日は、大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)遂行へと突き進む軍部・大本営報道部・東條内閣を批判する言論で発売禁止や停刊を繰り返し、ついには1944年(昭和19年)4月3日、内閣情報局から新聞紙法および治安維持法に基づく発行停止命令を受け、廃刊に追い込まれる。終戦直後に一時復刊したが、野依が公職追放され再び休刊。対日講和から6年もの歳月が流れた1958年(昭和33年)7月19日にようやく完全復活を果たした。野依死後の1969年(昭和44年)7月1日、児玉誉士夫がオーナーを務めていた国民タイムズ(現・東京スポーツ)の旧紙名を引き継がせて、『やまと新聞』に改題した。21世紀に入ってからは、Webサイト更新により随時刊行する電子新聞に転換している。詳細は「やまと新聞社#沿革」および「東京スポーツ#沿革」を参照
その後
著名な在籍者「Category:横浜毎日新聞の人物」も参照
石橋湛山 - 1908年(明治41年)入社。翌年、徴兵のため退社。後に第55代内閣総理大臣になる。「石橋湛山#ジャーナリスト時代」も参照
井土霊山 - 記者や編集長として、1880年代前半に「東京横浜毎日新聞」、1895年前後に「毎日新聞」、1914年以降には「東京毎日新聞」に在籍した[12]。
大杉栄[5][7]
尾崎士郎[7]
加藤勘十[7]
茅原華山[5][7]
岸上克己 - 幸徳秋水および横山源之助の薦めで1903年(明治36年)に入社、後に埼玉日日新聞主筆を経て浦和町議会議員。
木下尚江
肥塚龍 - 後に衆議院当選8回、副議長も務めた。
小泉又次郎 - 1887年(明治20年)島田の秘書となる。後に衆議院当選12回、貴族院勅選議員も務める大物となり、孫の小泉純一郎は第87-89代内閣総理大臣になった。
島田三郎 - 1874年(明治7年)入社。文部省を経て1881年に復帰、沼間の退任により社長に就任。後に衆議院当選14回、議長まで登り詰める大物国会議員となる。
杉村濬 - 1875年入社。後に外交官[13][14]。
関和知 - 1907年(明治40年)萬朝報から移籍。後に衆議院当選7回を重ねる有力議員となる。
平澤計七[7]
藤田勇[5][7] - 記者として在籍の後、1919年より社長を務める。
水野成夫 - 1925年に半年ほど在籍[3]。後に日本共産党中央機関紙『赤旗』初代編集長や産経新聞社社長などを歴任。
山口孤剣[7]
横山源之助
備考
本紙は日本で最初の日刊新聞であるとされる[1][3][4]。