東京急行電鉄
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社長就任直後に、五島慶太が乗っ取りを図った東洋精糖から撤収し、傘下の自動車メーカー東急くろがね工業(旧・日本内燃機製造、現・日産工機)を日産自動車に全株譲渡してグループから離脱させ、また東亜石油・日東タイヤ・東急エビス産業・吉田瓦斯・日本トリドールを譲渡、映画会社の東映を分離するなど[35]、拡大した東急グループを再編し、本業である鉄道業・運輸業とその関連性の高い事業に「選択と集中」を行った。一方で、本業である鉄道経営については伊豆急行の建設や田園都市線の延伸、新玉川線(後に田園都市線の一部となる)の建設といった鉄道敷設を行うほか、沿線のリゾートや宅地開発に関しては父慶太が立案した通りに忠実にやり遂げた。また五島昇の「環太平洋構想」を原点として、グループ経営の方向性に合わせ、航空事業(日本国内航空→東亜国内航空、後の日本エアシステム、現・日本航空)へ進出、さらに広告代理業である東急エージェンシーの設立、東急建設の設立、ホテル観光事業の拡大、流通部門の拡大、リゾート開発の拡大などを図り[36]、五島昇が社長だった1980年代終わりの最盛期にはグループ会社400社、8万人の従業員を数えた。

1989年(平成元年)3月、72歳で五島昇が死去した後、横田二郎を中心とする集団指導体制に移行したが、グループ各社のトップも年齢的に退く時期に重なり、経営は求心力を欠くこととなった。「東急グループ」としての厳格なマネジメントは存在しなかったため、各社の自由な裁量が大きく、グループ加盟会社毎に事業が拡大し、肥大化していた。結果、事業部門の重複が整理されないまま、最大で500社以上を数えるまでにグループ企業が拡大膨張してしまった。そして、1990年以降のバブル崩壊後の縮小経済下では、そのスケールはデメリットに転じ、1999年(平成11年)3月末時点の有利子負債はグループ全体で3兆円以上を抱えるなど業績不振に陥った。ここで、グローバル基準である連結決算重視の流れや減損会計の導入などを受けて、グループの再編に踏み切った。

1991年(平成3年)にはバス部門を分離し、東急バスとしている。

1998年(平成10年)、東急グループ代表清水仁の下、主要加盟社に対し「自立なき者は共創の輪に加わる事ができない」旨を通告[37]したのを皮切りに、リストラを加速した。電鉄事業に依存するのみで、「シナジー価値を創出していない」と判断された数百社をグループから離脱・独立させたのである。また、それまでの全国拡張路線を改め、原則的に東急沿線や都市部に経営資源を集中させた。重要なコア事業を担う子会社等は、本体(電鉄)にとってのポートフォリオ企業として監視を強める体制にした。その結果、加盟社数は約220社と大きく減少したが、業績は逆に好転し、回復傾向となった[38]

2017年時点の東急電鉄の中核事業は「住みたい沿線」・「訪れたい街」・「働きたい街」の3つをキーワードに、「日本一住みたい沿線 東急沿線」をスローガンとする鉄軌道事業(交通事業)、「日本一選ばれる沿線」であり続ける都市開発事業(不動産事業)、「ひとつの東急」の実現を目指す生活サービス事業・ホテル・リゾート事業・国際事業(海外での街づくり)である。田園都市や学園都市だけでなく総合的な「東急沿線の付加価値の向上」を目指し開発を進め、環境に優しい街づくりと、沿線活性化に努めて「次世代へつながる街づくり」を推進し、新スローガンは、「人へ、街へ、未来へ」としている。また、2022年には目黒蒲田電鉄創立から100周年を迎えた[注釈 51]
「大東急」の名残としての4私鉄の関係

前述の歴史的な沿革から、小田急電鉄・京浜急行電鉄・京王電鉄は、現在でも東急(旧・東京急行電鉄)が各社の株式200万株程度を保有する主要株主である。さらにこの4社は相互に株式持ち合いを行う関係にある。また、五島昇が社長・会長を務めていた当時は、東急系の小田急・京急・京王帝都各社の非常勤取締役に就いており、系列の東急エージェンシー東急レクリエーションは、現在でも上記3社とは資本的・人的関係を有するのも大東急の名残といえる。加えて、大東急記念文庫は、東急のほか、発足後の小田急・京急・京王各社が出資して設立され、現在もなお、これら4社が経営している。

また、合併されていた東急・小田急・京急・京王は現在でも電動車の形式記号に「モ」ではなく「デ」を使用している。

また、健康保険組合も東横目蒲電鉄健康保険組合(1935年4月1日設立)を祖とし、大東急時代に東京急行電鉄健康保険組合となり、これが東京西南私鉄連合健康保険組合と名称変更した。その後、1967年1月に東横百貨店が東急百貨店健康保険組合を設立し、また、1978年9月に小田急電鉄が小田急グループ健康保険組合を設立して分離した。2019年(令和元年)現在、東急・京急・京王はグループ会社を含め、東京西南私鉄連合健康保険組合に加盟している。なお東急・京急・京王グループのほか、相模鉄道・東映・関東バスも東京西南私鉄連合健康保険組合に加盟している[39]
年表

前身企業である田園都市(株)、目黒蒲田電鉄、および(旧)東京横浜電鉄から大東急までの各会社の時代の詳細な年表は、それぞれ「
田園都市(株)」、「目黒蒲田電鉄」、および「東京横浜電鉄」の各社史年表を、多摩田園都市開発に関しては「多摩田園都市開発年表」を参照のこと。

ダイヤ改正の詳細は「東急電鉄のダイヤ改正」を参照のこと。

前史

1918年大正7年)9月2日 田園都市株式会社設立。

1921年(大正10年)

4月 渋沢栄一が、第一生命矢野恒太に田園都市株式会社の経営を依頼。

6月 小林一三が、矢野恒太から田園都市株式会社の経営を依頼され、実質的に経営するようになる[40]


1922年(大正11年)

6月 田園都市株式会社、洗足田園都市の土地分譲開始(後の洗足地区)。

9月2日 田園都市株式会社の鉄道部門を分離独立させ目黒蒲田電鉄設立。

10月2日 五島慶太が目黒蒲田電鉄の専務取締役に就任(武蔵電気鉄道取締役と兼務)。


1923年(大正12年)

3月11日 目黒線 目黒駅 - 丸子駅(現在の沼部駅)間開通。

8月 田園都市株式会社が多摩川台地区で土地分譲開始(後に高級住宅街の代名詞となる田園調布地区[41])。

11月1日 目蒲線 目黒駅 - 蒲田駅間全線開通。


1924年(大正13年)10月25日 武蔵電気鉄道が社名変更し(旧)東京横浜電鉄発足。

1926年(大正15年)2月14日 (旧)東京横浜電鉄、丸子多摩川駅 - 神奈川駅間開通。目蒲線と相互乗り入れし、目黒駅 - 神奈川駅間直通運転開始。

1927年昭和2年)8月28日 (旧)東京横浜電鉄、渋谷駅 - 丸子多摩川駅間開通。渋谷駅 - 神奈川駅間直通運転開始。東横線と呼称。

1928年(昭和3年)5月5日 目黒蒲田電鉄が田園都市株式会社を合併。

1929年(昭和4年)

7月3日 (旧)東京横浜電鉄が日吉台の土地(23万7600m2)を慶應義塾大学へ寄付

12月25日 目黒蒲田電鉄、大井町線 大井町駅 - 二子玉川駅間全線開通。


1932年(昭和7年)3月31日 (旧)東京横浜電鉄、東横線 渋谷駅 - 桜木町駅間全線開通。

1934年(昭和9年)

10月1日 目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道(池上線)を合併。

11月1日 (旧)東京横浜電鉄、東横百貨店を開業。


1936年(昭和11年)12月24日 五島慶太が電鉄両社の取締役社長に就任。

1937年(昭和12年)12月1日 目黒自動車運輸および芝浦自動車を合併。

1938年(昭和13年)

1月 東京タクシーを設立。

4月1日(旧) 東京横浜電鉄が玉川電気鉄道(玉川線)を合併。

10月20日 江ノ島電気鉄道が(旧)東京横浜電鉄傘下に入る。


1939年(昭和14年)

10月1日 目黒蒲田電鉄が(旧)東京横浜電鉄を吸収合併。

10月16日 目黒蒲田電鉄が(新)東京横浜電鉄に商号変更。

11月21日 横浜市街自動車を買収。


1940年(昭和15年)


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