東京急行電鉄
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前述の通り(旧)小田急電鉄は五島慶太に経営の再建を委ねたのであるが、その他の池上電気鉄道、玉川電気鉄道、京浜電気鉄道、京王電気軌道の買収・合併は、つまりこの「ライバルや敵を身内にしてしまう」やり方は、主に株式の買い占めを図ることで行われ[注釈 42]、これらの会社を「あたかも札束をもって白昼強盗を働くように買収」し、その強引なやり方から、五島は名字をもじって「強盗慶太」なる異名をとっていた[注釈 43]。またこれら4社以外にも、1941年(昭和16年)11月までに、その資本力にもの言わせ買収した会社は、相模鉄道静岡電気鉄道江ノ島電気鉄道神中鉄道など、30社以上に達した[33]。さらに1944年(昭和19年)2月には五島慶太が運輸通信大臣に就任した。この時期までに路線延長は約320kmにもおよび、北は中央線から南は三浦半島、西は箱根までをテリトリーとするいわゆる「大東急」の時代となる。

しかし、戦後は一変、独占禁止法過度経済力集中排除法が施行される。「大東急」はこれらの法律の適用から除外されたものの、「大東急も当てはまる」と主張する(旧)小田急電鉄関係者を中心にかつての4社への復元運動が勃発する。これを受けて経営陣は会社経営の民主化に乗り出す。また、戦中の空襲での被害が沿線地域に集中しており、復興するためには一企業での資金調達が限界があり困難となったばかりか、空襲被害からの復旧、人口の郊外移動による各線の輸送力増強への対応など、合併により編入した各線は、東急の重い負担になっていた。東急は、まず1947年(昭和22年)に相模鉄道や静岡鉄道など傘下会社の持株の大部分をその会社の役職員などに譲渡して放出(相模鉄道の運営受託は持株放出直前の同年5月31日に終了している)。そこへ8月、五島慶太が公職追放に追い込まれる。そして1948年(昭和23年)5月に百貨店部門を東横百貨店(現・東急百貨店)に分離し、6月に小田急電鉄、京浜急行電鉄(京急)、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)[注釈 44] を分離させ、大東急の「再編成」を行った。ただし、三私鉄の分離独立後も、各社の幹部人事は五島慶太が指示しており、長男の五島昇を京急の取締役に就任させていた(のち小田急や京王帝都の取締役にも就任。五島昇が死去する1989年(平成元年)まで続いた)。その他、京王帝都の三宮四郎社長(東急出身)が大映曾我正史専務と組んで、映画会社日映設立の動きを見せると、当時、財務基盤が脆弱だった京王帝都の中核事業以外への過剰投資を憂慮した東急側の意向により、日映設立を中止させ、三宮社長を事実上更迭した例(日映事件)や、西武鉄道と激しく抗争した箱根・伊豆開発では小田急の安藤楢六社長を通じて代理戦争を演じた例(箱根山戦争)など、戦後しばらくは東急系三私鉄は、東急の衛星企業として機能した。
東京急行電鉄再発足以後

その後、1951年(昭和26年)8月、公職追放から復帰した五島慶太は、自ら提唱した多摩田園都市構想に基づき、その動脈である田園都市線を建設する。「東京都の人口が750万人以上になれば公共施設が追いつけず、その機能が失われると思われる。人口膨張により東京都自身がゆき詰まってしまう。そこで大山街道(現・国道246号)沿いに500万(1650万平方メートル[注釈 45]を買収して第二の東京都をつくることを計画した。これを実施するのは、田園調布などの街づくりに実績のある当社が適当である。大山街道沿いに沿って10か所ほどの小都市をつくって、同時にこの地方全体の発展を図りたいと考えている。(五島慶太口述『城西南地区開発趣意書』より)」1953年。1953年(昭和28年)1月に発表されたこの構想により、城西南地区(神奈川県の川崎市中部、横浜市北部)を4ブロックに分け、それぞれの地区に新都市を建設する計画を立てた。その後、横浜市港北区(現・都筑区)に当る第3ブロックは鉄道建設区域から離れているため東急電鉄自体での開発は断念し(後に横浜市の港北ニュータウンとなる)、元の第4ブロックを第3ブロックとし、新たに町田市南部、大和市北東部を第4ブロックとし開発を推進した[34]。まず1963年(昭和38年)10月、大井町線(大井町駅 - 溝の口駅間)を田園都市線と改称し、1966年(昭和41年)4月、これを延長する形で溝の口駅 - 長津田駅間を開業、その後徐々に延伸した[注釈 46]1977年(昭和52年)4月、1969年(昭和44年)5月に廃止された玉川線の継承路線である新玉川線(渋谷駅 - 二子玉川園駅間)が開通、11月には田園都市線と快速列車が直通運転を開始した。1979年(昭和54年)8月には、 全列車が田園都市線(二子玉川駅 - 長津田駅方面)から新玉川線を経由して半蔵門線方面へ直通運転を開始し、同時に大井町駅 - 二子玉川園駅間を大井町線として分離した。1984年(昭和59年)4月には、つきみ野駅 - 中央林間駅が全線開業し、多摩田園都市の基礎的インフラが完成する。また2009年(平成21年)7月には、沿線の人口増加による混雑対策として、田園都市線の二子玉川駅 - 溝の口駅間が複々線化され、バイパス路線として大井町線が溝の口駅まで乗り入れを開始した。

その五島慶太に東急の祖業であるとまで言わしめた東横線であるが、1964年(昭和39年)8月に営団(現・東京メトロ日比谷線と、中目黒駅 - 日吉駅間で直通運転を開始した[注釈 47]1988年(昭和63年)3月からやはり混雑対策として、東横線の複々線化工事に着手。最初の工事である日吉駅改良工事に伴い、同年8月から菊名駅まで日比谷線との直通運転区間が延長された。そして2000年(平成12年)8月、田園調布駅 - 武蔵小杉駅間までの複々線化一期工事が終了、うち2線を利用し、目蒲線の目黒駅 - 田園調布駅間と直通運転することにより目黒駅 - 武蔵小杉駅間を目黒線[注釈 48]とし、東横線のバイパス路線とした。そして同時に目蒲線の多摩川駅 - 蒲田駅間は東急多摩川線として分割され、東急電鉄が最初に施設した路線である目蒲線の名称は消滅した。目黒線は2000年9月に東京メトロ南北線都営地下鉄三田線との相互直通運転を開始し、続いて2001年3月には、南北線を介して埼玉高速鉄道線との相互直通運転も始まり、そして2008年6月に日吉駅まで複々線化工事が完了し、同駅まで延伸開業した。2004年(平成16年)2月1日、横浜駅から横浜高速みなとみらい線の横浜 - 元町・中華街駅と直通運転を開始し、これに伴い前日の1月31日に横浜駅 - 桜木町駅間が廃止となった。2013年(平成25年)3月16日、渋谷駅 - 代官山駅間の地下化が完成し、東横線は東京メトロ副都心線と直通運転を開始、副都心線を介して東武東上本線西武池袋線との相互乗り入れも開始され、横浜高速鉄道も含め5社による相互直通運転となった[注釈 49]。同時に、49年間続いた日比谷線直通運転は終了となり、同線は全てが中目黒駅での折り返しとなった[注釈 50]

五島慶太の息子、五島昇は、東京大学経済学部卒業後の1940年(昭和15年)東京芝浦電気(現・東芝)に一旦入社するも、1945年(昭和20年)には東京急行電鉄に入社した。1948年(昭和23年)には新発足した東急横浜製作所(後の東急車輌、現・総合車両製作所)、京浜急行電鉄などの取締役となり、1954年(昭和29年)には東急電鉄社長に就き、五島慶太の後継となった。社長就任直後に、五島慶太が乗っ取りを図った東洋精糖から撤収し、傘下の自動車メーカー東急くろがね工業(旧・日本内燃機製造、現・日産工機)を日産自動車に全株譲渡してグループから離脱させ、また東亜石油・日東タイヤ・東急エビス産業・吉田瓦斯・日本トリドールを譲渡、映画会社の東映を分離するなど[35]、拡大した東急グループを再編し、本業である鉄道業・運輸業とその関連性の高い事業に「選択と集中」を行った。一方で、本業である鉄道経営については伊豆急行の建設や田園都市線の延伸、新玉川線(後に田園都市線の一部となる)の建設といった鉄道敷設を行うほか、沿線のリゾートや宅地開発に関しては父慶太が立案した通りに忠実にやり遂げた。また五島昇の「環太平洋構想」を原点として、グループ経営の方向性に合わせ、航空事業(日本国内航空→東亜国内航空、後の日本エアシステム、現・日本航空)へ進出、さらに広告代理業である東急エージェンシーの設立、東急建設の設立、ホテル観光事業の拡大、流通部門の拡大、リゾート開発の拡大などを図り[36]、五島昇が社長だった1980年代終わりの最盛期にはグループ会社400社、8万人の従業員を数えた。


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