東京急行電鉄
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東横線は五島慶太が最も精魂を傾けて建設した路線だと言われている[19]。1932年(昭和7年)3月には桜木町駅まで延長、東横線が全線開業した。これら沿線に1925年(大正14年)12月、多摩川園を開園、1934年(昭和9年)11月、渋谷に東横百貨店[注釈 25]を、田園調布に田園テニス倶楽部を、1936年(昭和11年)に田園コロシアムを作るなど沿線住民の利便性を高めた。「乗客は電車が創造する」と言った小林一三が阪急で用いた手法を五島慶太は継承したのである[注釈 26][注釈 27]

それだけでなく、大学等の学校を誘致する。まず、1924年(大正13年)、関東大震災で被災した東京工業大学蔵前から目蒲線の大岡山に土地の等価交換により移転させることに成功した[注釈 28]。そして、1929年(昭和4年)には慶應義塾大学日吉台の土地を無償提供し[注釈 29]、1934年(昭和9年)日吉キャンパスが開設された。1931年(昭和6年)に日本医科大学武蔵小杉駅近くの土地を無償提供し、1932年(昭和7年)に東京府立高等学校(現:東京都立大学[注釈 30])を八雲に誘致、1936年(昭和11年)に東京府青山師範学校(現:東京学芸大学[注釈 31])を世田谷・下馬に誘致するなど、東横沿線は田園都市としてだけでなく学園都市としての付加価値も高まっていくことになり、かつ多くの通学客という安定的な乗客の獲得にもつながった[20]。また、1927年(昭和2年)7月から1929年(昭和4年)12月にかけて大井町駅 - 二子玉川駅間を開通させ大井町線と呼んだ[注釈 32]

その後、五島慶太は事業拡大に乗り出す。まず、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道(現在の池上線を運営)を買収・合併した。目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道は開業当初から開発地域が競合していたが、その一方で合併話も持ち上がっていた。「当時の池上電鉄は経営が苦しいのに有利な条件を出しゴタゴタ言ってきた」そこで、経営者の後藤国彦とオーナーの川崎財閥とはうまくいっていないことを利用し、1933年(昭和8年)5月、五島慶太は、川崎財閥総帥の川崎肇から「池上電鉄の株、全部で一二万株のうち八万五千株を一夜にして買ってしまい、万事うまくいった[21]」と買収して乗っ取ってしまったのである[22]。次に、(旧)東京横浜電鉄は玉川電気鉄道玉川線(現在の田園都市線の一部となった新玉川線の前身)および、世田谷線の母体)を買収・合併した。(旧)東京横浜電鉄は、当時渋谷の開発をめぐり玉川電気鉄道と競合していたが、五島慶太は同時に抱えていた地下鉄道建設を目的で設立された東京高速鉄道の案件で、地下鉄渋谷駅の建設をするのに玉川電気鉄道の協力が必要だった[注釈 33]。また玉川電気鉄道の電灯電力供給事業も欲しかった。そこで千代田生命内国貯金銀行が持っていた玉川電気鉄道の株五万六千株を買収、1936年(昭和11年)10月、五島慶太が社長に就任、乗っ取りに成功し、1938年(昭和13年)4月には(旧)東京横浜電鉄は玉川電気鉄道を合併した[23]

そして、目黒蒲田電鉄は1939年(昭和14年)10月1日に(旧)東京横浜電鉄を合併し、10月16日に、名称を逆に(新)東京横浜電鉄と改称した。この合併にあたり、歴史が長く東急電鉄の幹線となる東横線を運営する(旧)東横電鉄を主体とし、目蒲電鉄をこれに併合する予定であったが、資本の流れの問題もあり、まず目蒲電鉄が東横電鉄を併合し、目蒲電鉄を形式上の存続会社とし、名称を逆に東横電鉄とした[24][注釈 34]。この時に、現在の東急の基本となる路線がほぼ一元的に運営されるようになっている。なお、田園都市株式会社は1928年(昭和3年)5月に、多摩川台地区などの分譲が完了したため、子会社である目黒蒲田電鉄に吸収合併されたが[25]デベロッパーとしての東急不動産の始祖でもあった[26]
「大東急」の時代「大東急」時代の路線網(1945年6月1日)「大東急」も参照

1938年(昭和13年)4月、電力国家管理法が公布され、1939年(昭和14年)4月に国策会社日本発送電が発足する。このことにより小田原急行鉄道[注釈 35] の親会社である鬼怒川水力電気は、得意先(売電先)を失うなどして経営が悪化する。それに伴い小田原急行鉄道も経営が悪化し、社長であった利光鶴松が五島慶太に経営を委ね、1939年(昭和14年)10月、五島は小田原急行鉄道の取締役会で取締役に選任された。1941年(昭和16年)3月に小田原急行鉄道は、経営再建のため鬼怒川水力電気に合併し、鬼怒川水力電気が(旧)小田急電鉄と社名を変更。同年9月には五島慶太が社長に就任した[27]

前節で触れた東京高速鉄道は、渋谷駅 - 新橋駅 - 東京駅間の地下鉄建設を行う会社として、大倉財閥門野重九郎、脇道誉と小田原急行鉄道の利光鶴松が組んで設立しようとした会社で、当時の東京市山手線内の鉄道施設権を独占していたが財源が無く東京高速鉄道に地下鉄道の施設権を譲渡したのであった。しかし東京高速鉄道も資金難であり、第一生命の創業者であり東京横浜電鉄の社長だった矢野恒太[注釈 36]に相談すると「東横電鉄の五島慶太を参加させること」を条件に出資し五島が常務(事実上の経営者)に就任、1934年(昭和9年)9月、会社は設立された。五島は、東京高速鉄道の渋谷から新橋までの運営は、すでに浅草駅 - 神田駅 - 新橋駅間で開業(1934年(昭和9年)6月に全通)していた東京地下鉄道と結んだ方が経営上の効率が良いと判断し、また東京市との約束「将来において東京地下鉄道と合併を条件に施設権を譲渡する」もあり、東京地下鉄道と交渉し両社間で直通することで半ば強引に合意した。しかし、東京地下鉄道側は合意に反し、1937年(昭和12年)3月、京浜電気鉄道と結んで京浜地下鉄道を設立し、東京高速鉄道との直通ではなく新橋から品川方面への延伸計画を発表した[注釈 37]。これに対し五島は、東京地下鉄道の提携先である京浜電気鉄道株式の買い占めにかかり、1938年(昭和13年)1月、まず同社の大株主であった前山久吉(内国貯金銀行頭取)から株式を入手、次いで1939年(昭和14年)3月、京浜電気鉄道会長である望月軍四郎からも入手、東京高速鉄道は京浜電鉄株の過半数を所有、同年4月、五島慶太が京浜電鉄の取締役となり傘下とし、同時に姉妹会社である湘南電気鉄道も傘下に収め[注釈 38]、6月に五島慶太は京浜電鉄の専務に就任、1941年(昭和16年)11月には社長に就任した[29]

その東京高速鉄道であるが、1938年(昭和13年)12月、渋谷駅 - 虎ノ門駅間を開通し、1939年(昭和14年)1月には新橋駅まで延伸したが、前述の東京地下鉄道側の抵抗により東京高速鉄道の新橋駅を別に建設しての運行を余儀なくされていた[注釈 39]。しかし同年8月には、東京地下鉄道の株も大株主の穴水熊雄から買収し、やっと9月に東京高速鉄道と東京地下鉄道との新橋駅での相互乗り入れが始まった[30]。現在の東京メトロ銀座線である。結局1941年(昭和16年)9月、陸上交通事業調整法により、両社は京浜地下鉄道と共に新たに発足した帝都高速度交通営団に併合され、地下鉄に関しては五島の乗っ取りはかなわなかった[注釈 40]


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