東京急行電鉄
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

都市開発の一環としての鉄道事業という位置付けはこの当時からのものであり、第二次世界大戦終結後においても、多摩田園都市の開発に伴う田園都市線の延伸などのプロジェクトを行っている[16]

この開業に当たり、大阪の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の創業者で鉄道経営の実績があり、既に 1921年(大正10年)6月から田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三[注釈 15][注釈 16][注釈 17] は、その役員会で「僕が毎月上京して役員会で方針を定めて行くが、さっぱり実行出来ない。実行力のある人を役員に入れて貰わねば、せっかく毎月来ても何にもならぬ[注釈 18]」と自身の代わりに鉄道省出身で当時未開業の武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東横線の母体)の経営に携わっていた五島慶太を推挙した[注釈 19][注釈 20][注釈 21]。こうして1922年(大正11年)10月、目蒲入りした五島慶太は陣頭指揮を執って同社を東都最大の私鉄に育成することとなる。しかし、田園都市株式会社、及び目黒蒲田電鉄の経営も「私自身本来の眼目であった」武蔵電気鉄道の開業を期すための手段という位置づけであった[17]

まず、1923年(大正12年)3月に目黒駅 - 丸子駅(現在の沼部駅)間を開業させて洗足田園都市の居住者に交通の便を提供し、8月には多摩川台地区の分譲も始めた。同年9月1日、関東大震災が発生し東京市内は壊滅的な被害を受けたが、洗足田園都市の分譲地にはほとんど被害が無く[注釈 22]、また11月には目黒駅 - 蒲田駅間を全通させることができ、目蒲線(現在の目黒線の一部および東急多摩川線)と呼んだ。次に、目黒蒲田電鉄の姉妹会社である(旧)東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道の後身)[注釈 23]1926年(大正15年)2月に丸子多摩川駅(現在の多摩川駅) - 神奈川駅間 (神奈川線、14.7 km) を開通させ、目蒲線との相互乗り入れにより、目黒駅 - 神奈川駅間の直通運転を開始した[注釈 24]。そして翌1927年昭和2年)8月には渋谷駅 - 丸子多摩川駅間 (渋谷線、9.1 km) を開通させ、渋谷駅 - 神奈川駅間(23.9 km)の直通運転を開始して、東横線と呼んだ。東横線は五島慶太が最も精魂を傾けて建設した路線だと言われている[19]。1932年(昭和7年)3月には桜木町駅まで延長、東横線が全線開業した。これら沿線に1925年(大正14年)12月、多摩川園を開園、1934年(昭和9年)11月、渋谷に東横百貨店[注釈 25]を、田園調布に田園テニス倶楽部を、1936年(昭和11年)に田園コロシアムを作るなど沿線住民の利便性を高めた。「乗客は電車が創造する」と言った小林一三が阪急で用いた手法を五島慶太は継承したのである[注釈 26][注釈 27]

それだけでなく、大学等の学校を誘致する。まず、1924年(大正13年)、関東大震災で被災した東京工業大学蔵前から目蒲線の大岡山に土地の等価交換により移転させることに成功した[注釈 28]。そして、1929年(昭和4年)には慶應義塾大学日吉台の土地を無償提供し[注釈 29]、1934年(昭和9年)日吉キャンパスが開設された。1931年(昭和6年)に日本医科大学武蔵小杉駅近くの土地を無償提供し、1932年(昭和7年)に東京府立高等学校(現:東京都立大学[注釈 30])を八雲に誘致、1936年(昭和11年)に東京府青山師範学校(現:東京学芸大学[注釈 31])を世田谷・下馬に誘致するなど、東横沿線は田園都市としてだけでなく学園都市としての付加価値も高まっていくことになり、かつ多くの通学客という安定的な乗客の獲得にもつながった[20]。また、1927年(昭和2年)7月から1929年(昭和4年)12月にかけて大井町駅 - 二子玉川駅間を開通させ大井町線と呼んだ[注釈 32]

その後、五島慶太は事業拡大に乗り出す。まず、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道(現在の池上線を運営)を買収・合併した。目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道は開業当初から開発地域が競合していたが、その一方で合併話も持ち上がっていた。「当時の池上電鉄は経営が苦しいのに有利な条件を出しゴタゴタ言ってきた」そこで、経営者の後藤国彦とオーナーの川崎財閥とはうまくいっていないことを利用し、1933年(昭和8年)5月、五島慶太は、川崎財閥総帥の川崎肇から「池上電鉄の株、全部で一二万株のうち八万五千株を一夜にして買ってしまい、万事うまくいった[21]」と買収して乗っ取ってしまったのである[22]。次に、(旧)東京横浜電鉄は玉川電気鉄道玉川線(現在の田園都市線の一部となった新玉川線の前身)および、世田谷線の母体)を買収・合併した。(旧)東京横浜電鉄は、当時渋谷の開発をめぐり玉川電気鉄道と競合していたが、五島慶太は同時に抱えていた地下鉄道建設を目的で設立された東京高速鉄道の案件で、地下鉄渋谷駅の建設をするのに玉川電気鉄道の協力が必要だった[注釈 33]。また玉川電気鉄道の電灯電力供給事業も欲しかった。そこで千代田生命内国貯金銀行が持っていた玉川電気鉄道の株五万六千株を買収、1936年(昭和11年)10月、五島慶太が社長に就任、乗っ取りに成功し、1938年(昭和13年)4月には(旧)東京横浜電鉄は玉川電気鉄道を合併した[23]

そして、目黒蒲田電鉄は1939年(昭和14年)10月1日に(旧)東京横浜電鉄を合併し、10月16日に、名称を逆に(新)東京横浜電鉄と改称した。この合併にあたり、歴史が長く東急電鉄の幹線となる東横線を運営する(旧)東横電鉄を主体とし、目蒲電鉄をこれに併合する予定であったが、資本の流れの問題もあり、まず目蒲電鉄が東横電鉄を併合し、目蒲電鉄を形式上の存続会社とし、名称を逆に東横電鉄とした[24][注釈 34]。この時に、現在の東急の基本となる路線がほぼ一元的に運営されるようになっている。なお、田園都市株式会社は1928年(昭和3年)5月に、多摩川台地区などの分譲が完了したため、子会社である目黒蒲田電鉄に吸収合併されたが[25]デベロッパーとしての東急不動産の始祖でもあった[26]
「大東急」の時代「大東急」時代の路線網(1945年6月1日)「大東急」も参照

1938年(昭和13年)4月、電力国家管理法が公布され、1939年(昭和14年)4月に国策会社日本発送電が発足する。このことにより小田原急行鉄道[注釈 35] の親会社である鬼怒川水力電気は、得意先(売電先)を失うなどして経営が悪化する。それに伴い小田原急行鉄道も経営が悪化し、社長であった利光鶴松が五島慶太に経営を委ね、1939年(昭和14年)10月、五島は小田原急行鉄道の取締役会で取締役に選任された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:356 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef