東京急行電鉄
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鉄道総営業距離は110.7km(2023年3月31日時点)[9]大手私鉄16社中10位であるが、会社分割前の単体売上高はJRを除く日本の鉄道事業者で、東京地下鉄(東京メトロ)、近畿日本鉄道(近鉄)に次ぎ、また営業キロ当たりの単体売上高は25.4億円/kmと、東京メトロの17.3億円/kmの約1.5倍であり、他を引き離している(2011年度)[注釈 1]。連結売上高は1位、利益は連結、単体ともに1位である(JRグループを含む場合は、連結売上高はJR東日本JR東海に続く3位であり、以下4位のJR西日本、5位の東京メトロと続く)。

渋沢栄一東京府荏原郡(現在の東京都区部南西部=品川区目黒区大田区および世田谷区の一部)の宅地開発とその住民のための交通網及び生活基盤整備[注釈 2]のために1918年に創設した田園都市株式会社を源流とするグループ企業の一つであり[10]、こうした設立経緯から東急電鉄以外の不動産部門、ホテル部門や生活サービス部門(小売業)などの収益が鉄軌道事業の収益をはるかに上回り、連結決算で見た東急グループ全体の営業収益(売上高に相当)は毎年1兆円を超える。東急のグループ企業には、路線バスなど交通、不動産開発、小売業、ホテル・リゾートなどに221社8法人が名を連ねる(2017年3月末時点)[11]

2020年3月頃からは、「美しい時代へ―」のほかに「人へ、街へ、未来へ。」という当社独自のコーポレートスローガンを使用するようになった[12]
東急と五島家「五島慶太」も参照

1943年に東京急行電鉄が刊行した『東京横浜電鉄沿革史』によると、東急の“創設者”は東急の母体企業“田園都市創設者”という表現で渋沢栄一となっている[13]。また、渋沢の子である渋沢秀雄田園都市株式会社取締役支配人、及び東急電鉄の常任監査役などを務めていた。

しかし、東急の事実上の“創業者”は五島慶太と認識されている。これは、東急の源流企業である田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三阪急電鉄創業者)がその子会社である目黒蒲田電鉄に、当時、鉄道省の高級官吏であった五島慶太を経営陣に招聘し、それ以降五島慶太を中心に同社が東京横浜電鉄、東京急行電鉄と変遷し、現在の東急株式会社を中核とする東急グループが形成されたからである。

とは言え、東武鉄道の根津家や西武鉄道の堤家[14][注釈 3][注釈 4] とは異なり、五島慶太は資本による会社支配は行わなかった[注釈 5]。つまり五島家の東急の持株比率は低く、個人株主では国際興業小佐野賢治が筆頭であった。また、五島慶太の後継者五島昇も資本による会社支配を行わなかったことから、五島慶太・昇父子の経営者としての手腕や、パーソナリティでグループが結束を保ってきた歴史を有する。五島昇の後継者として目された昇の長男五島哲は、本田技研工業を経て東急取締役に就任し、東急建設社長を務めたが、五島昇に望まれながらも東急本社の社長には就任せずに他界した。現在、東急グループの経営陣に五島家出身者はいない。
歴史
前史目蒲線開通前夜の田園都市株式会社、目蒲電鉄重役一行[13]。丸子終点(現沼部駅)にて。左端は五島慶太、右から3人目は小林一三「田園都市株式会社」も参照

東京急行電鉄の歴史は、渋沢栄一[注釈 6]が理想的な住宅地「田園都市[注釈 7][注釈 8]」の開発を目的に、1918年大正7年)9月に設立、1922年(大正11年)6月から洗足田園都市(後の洗足地域)の分譲を開始[注釈 9] していた田園都市株式会社を始祖とし[15][注釈 10]、その鉄道部門[注釈 11]を同年9月に子会社として分離した目黒蒲田電鉄に始まる。会社分離後の翌1923年(大正12年)8月、多摩川台地区(後の田園調布[注釈 12][注釈 13]地域)の分譲も開始し、目黒蒲田電鉄はそれらの交通を担った[注釈 14]。つまり目黒蒲田電鉄は、田園都市株式会社と地権者が共同開発した分譲地を、その付加価値を高めるために、省線(現在のJR線)と結ぶ交通手段として設立されたのである。都市開発の一環としての鉄道事業という位置付けはこの当時からのものであり、第二次世界大戦終結後においても、多摩田園都市の開発に伴う田園都市線の延伸などのプロジェクトを行っている[16]

この開業に当たり、大阪の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の創業者で鉄道経営の実績があり、既に 1921年(大正10年)6月から田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三[注釈 15][注釈 16][注釈 17] は、その役員会で「僕が毎月上京して役員会で方針を定めて行くが、さっぱり実行出来ない。実行力のある人を役員に入れて貰わねば、せっかく毎月来ても何にもならぬ[注釈 18]」と自身の代わりに鉄道省出身で当時未開業の武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東横線の母体)の経営に携わっていた五島慶太を推挙した[注釈 19][注釈 20][注釈 21]。こうして1922年(大正11年)10月、目蒲入りした五島慶太は陣頭指揮を執って同社を東都最大の私鉄に育成することとなる。しかし、田園都市株式会社、及び目黒蒲田電鉄の経営も「私自身本来の眼目であった」武蔵電気鉄道の開業を期すための手段という位置づけであった[17]

まず、1923年(大正12年)3月に目黒駅 - 丸子駅(現在の沼部駅)間を開業させて洗足田園都市の居住者に交通の便を提供し、8月には多摩川台地区の分譲も始めた。同年9月1日、関東大震災が発生し東京市内は壊滅的な被害を受けたが、洗足田園都市の分譲地にはほとんど被害が無く[注釈 22]、また11月には目黒駅 - 蒲田駅間を全通させることができ、目蒲線(現在の目黒線の一部および東急多摩川線)と呼んだ。次に、目黒蒲田電鉄の姉妹会社である(旧)東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道の後身)[注釈 23]1926年(大正15年)2月に丸子多摩川駅(現在の多摩川駅) - 神奈川駅間 (神奈川線、14.7 km) を開通させ、目蒲線との相互乗り入れにより、目黒駅 - 神奈川駅間の直通運転を開始した[注釈 24]


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