東京急行電鉄
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^ 大東急発足前の小田原急行鉄道、その後の(旧)小田急電鉄は、現在の小田原線江ノ島線と帝都電鉄井の頭線(現在の京王電鉄井の頭線)を経営していた。
^ 田園都市株式会社の大株主であり1921年(大正13年)10月から1928年(昭和3年)5月まで(旧)東京横浜電鉄の会長・社長を務め、1927年(昭和2年)4月から1928年(昭和3年)5月まで田園都市株式会社と目黒蒲田電鉄の社長を務めていた。この経緯もあり、現在でも第一生命が東急電鉄の筆頭株主である[28]
^ この時の「京浜電気鉄道との品川までの施設権」は後の営団地下鉄が引き継いだのであるが、戦後の復興期に、営団だけでは地下鉄道の建設が追いつかないという東京都の主張が受け入れられ、1956年(昭和31年)都市交通審議会の答申で1号線(都営地下鉄浅草線)として戦前からの東京市の念願だった地下鉄道を実現することになり、また同時に泉岳寺駅での京浜急行との乗り入れもかなった。
^ 1939年(昭和14年)4月21日、五島慶太が京浜電鉄の取締役に、また湘南電鉄の専務取締役に選任された。
^ 相互乗り入れするまでの8か月間、新橋駅に東京高速鉄道と東京地下鉄道のホームが別々に存在していた。現在利用されているのは東京地下鉄道のホームであるが、東京高速鉄道のホームも残存しており車両留置や資材置き場などに活用され、また「幻のホーム」として特別イベントで公開されることがある。
^ 東京地下鉄道の株を、東京高速鉄道(東横電鉄)の五島慶太が買収したのであるが、「この時は鉄道省だけでなく、政界、日本銀行を含む財界を巻き込む騒動となってしまった。」この騒動を陸上交通事業調整法を用い「いわば、けんか両成敗で」仲裁に持ち込み、その後、帝都高速度交通営団として吸収してしまったのは、五島慶太の東京帝国大学法学部、および鉄道省の後輩、佐藤栄作(後の内閣総理大臣)であった。 - 佐藤栄作『今日は明日の前日』フェイス社、1964年(昭和39年)
^ 京王は電力国家管理法が交付されるまでは業績が良好であったこともあり、会長であった井上篤太郎は「我が城(京王)は小さくともダイヤモンドだ。東京急行は規模はでかいかも知れないが瓦礫の山だ」と言って、東急との合併に最後まで反対した。 - 『東急外史 顔に歴史あり』沿線新聞社、1982年(昭和57年)。
^ 五島は「時にはやむを得ず、株買い占めという強硬手段も採らざるをえないこともあったが」と言っている。 - 『私の履歴書』第一集(日本経済新聞社、1957年2月10日) P20
^ 五島は「世間で言うような単に私の征服欲、事業欲のためのみでなく、東横電鉄の社員を愛し、その老後の生活までを考え、あわせて会社の総経費を分割して、経費を下げるということからやったことである」と言っている。 - 『私の履歴書』第一集(日本経済新聞社、1957年2月10日) P20。
^ (旧)小田急系の帝都電鉄は(旧)小田急電鉄から分離され、(旧)京王電気軌道系の京王帝都電鉄の所属となり、京王井の頭線となった。
^ 田園都市株式会社が開発した45万坪(148万平方メートル)の約11倍の規模である。
^ 1968年(昭和43年)4月、つくし野駅まで延伸。1972年(昭和47年)4月、すずかけ台駅まで延伸。1976年(昭和51年)10月、つきみ野駅まで延伸、全線複線化完成。1984年(昭和59年)4月に中央林間駅までの全線が開業した。
^ 日比谷線では当初から北千住側で、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)とも相互乗り入れをしているが、東横線からの車両の乗り入れは北千住駅までで、営団の車両(3000系03系)でも東横線との運用の場合は乗り入れは北千住駅までとなり、その後開通した東京メトロ千代田線のように3社(3線)をまたいで乗り入れることはなかった。
^ a b 目黒線は書類上は目黒駅 - 田園調布駅間であるが、東横線の複々線のうち2線を利用して2000年8月6日から武蔵小杉駅まで運行、2008年6月22日に日吉駅まで延長して運行している。
^ 田園調布駅から日吉駅までの複々線区間は、目黒線に乗り入れている都営三田線と埼玉高速鉄道を含め計7社が乗り入れている。
^ ただし、日比谷線の車両の分解・検査業務が東京地下鉄鷺沼車両基地で行われているため、中目黒駅 - 鷺沼駅間の回送運用は存続している。
^ 親会社である田園都市株式会社は1918年(大正7年)9月に設立されたが、目黒蒲田電鉄は1922年9月に、子会社として分離され設立された。
^ 複数の地下鉄事業者の路線への直通は、2023年3月18日に相模鉄道も東急線を介してながら両地下鉄事業者の路線に直通運転を開始するまで、関東大手私鉄で唯一であった。なお、相鉄車は両地下鉄事業者の路線に直通運転するが、両地下鉄事業者の車両は2023年時点では相鉄線に直通運転しない。関西圏では近畿日本鉄道Osaka Metro京都市営地下鉄の2つの地下鉄事業者の路線に直通している。
^ 相鉄が2023年2月17日に実施したプレスリリース内の時刻表。
^ 東横線との直通運転終了後の2013年3月16日からは東武日光線南栗橋駅まで相互直通運転を実施している。
^ 『東京急行電鉄50年史』による。『京浜急行八十年史』では1943年(昭和18年)に品川線と湘南線が統合され品川 - 浦賀間と付随する支線を湘南線としたとする記述があるが、『東京急行電鉄50年史』では営業局制から管理部制の変更の項、戦時中の駅休廃止の項、戦後の京急独立の項のいずれにおいても一貫して旧京浜線を品川線、旧湘南線を湘南線としており、1943年の路線名統合の記述はない[58][59]。また、「京浜急行復活を告げるポスター」など、京急側においても京急独立時まで「品川線」「湘南線」の区分けがあった資料が散見される[60]
^ 運用離脱した車両のうち、廃車や転用を前提にした車両の呼称であるが、事故等で使用不能になった車両と代替できるように常に運行可能状態としているため、実態は特別休車と同類の呼称である(イカロス出版『私鉄車両年鑑2013』p269)
^ このため、8500系の中間車であるデハ8700・8800形は、8799・8899号の次が0700-・0800-と付番されている。
^ 東急線の駅窓口では購入できないものや乗車券の効力、特典の内容が異なるものがある。
^各駅時刻表 - 冒頭部に「<3月17日ダイヤ改正に伴う、東急電車時刻表(冊子タイプ)の発行について>今般、パソコンや携帯電話等の普及により、時刻表への需要が減少傾向にあることから東急電車時刻表の発行は見送らせていただきます。 冊子タイプの時刻表をご希望のお客さまにおかれましては、市販の時刻表等をご利用頂きますようお願い申し上げます。」と記載(東急電鉄ウェブサイト 2012年5月27日閲覧)
^ 駅名に社名を冠した駅がないのは、関東の大手私鉄では相模鉄道が、大手私鉄全体では阪急電鉄阪神電気鉄道南海電気鉄道も該当する。

出典^ a b c d e f g h “会社概要”. 東急電鉄. 2020年5月22日閲覧。
^ a b “Company Profile|Company Outline|Tokyu Railways”. 東急電鉄. 2020年5月22日閲覧。
^ a b c d e f 第3期決算公告、2022年(令和4年)7月15日付「官報」(号外第154号)143頁。
^ a b 商号変更および鉄軌道事業の分社化に関するお知らせ - 東急株式会社

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