東京急行電鉄
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注釈^ 東急の単体売上高は2473億3300万円、営業キロ数は97.5km。一方、東京地下鉄の単体売上高は3320億800万円、営業キロ数は192.1kmである(2011年度)。
^ 田園都市株式会社が都市開発の基本理念として、「1時間以内に都会の中心部に到着し得べき交通機関を有すること」「電信、電話、電灯、ガス、水道などの完整させること」「病院、学校、倶楽部等の設備あること」「消費組合の如き社会的施設も有すること」などを当時から挙げており、住宅分譲だけでなく、住民の利便性向上のための生活基盤整備をめざしていた。- 『田園都市案内パンフレット』田園都市株式会社、1922年(大正11年)
^ 堤家は、国土計画(後のコクド、株式非上場、2006年プリンスホテルに吸収合併され解散)を名義株(株式の虚偽記載)により支配して相続税を払わず、そのコクドの子会社であった西武鉄道の株の過半数を、これも名義株を使い実効支配することにより西武鉄道グループを私物化していた。
吉野源太郎『西武事件「堤家」支配と日本社会』日本経済新聞社、2005年5月20日。
安西巧『西武争奪-資産2兆円をめぐる攻防』日本経済新聞社、2006年4月20日。
^ 「コクド株や西武株を信頼出来る人々に、分散して持たせておいて、後で義明の元に全部戻してもらったのであった」「堤康次郎は選挙に金を注ぎ込まなければならないと考えた。陸運局の公聴会を利用して、選挙民を動員して公聴会に連れて行き、その謝礼という名目で金を渡した」株式の名義株(虚偽記載)の方法や選挙における買収の方法が西武の専属弁護士によって具体的に書かれている。 - 中島忠三郎『西武王国?その炎と影』サンデー社、2004年12月10日。
^ 五島は資本による会社支配は行わなかったため、ファミリー企業(同族経営企業)ではなかったが、池上電鉄玉川電鉄京浜電鉄京王電軌などの会社を、あたかも札束(資本)をもって白昼強盗を働くように買収し「強盗慶太」と異名を頂戴した。 - 『私の履歴書』第一集(日本経済新聞社、1957年2月10日) P20。
^ 渋沢栄一は当時(大正後期)の東京の住環境、特に下町の住環境の劣悪さを憂いており、良質な住宅の供給を考えていた。「回顧すれば老生は維新前より数回欧米の諸邦を旅行し、其大都市を観察するに各商店は概ね店舗と住宅とを異にし、而して其住宅は多く都塵を避けたる郊外に在りて、朝に店舗に来り夕に住宅に還るを常とせり、然るに我が東京市の如きは古来の慣習上店舗住居同一なるが為に、緊要の商業地区を庭園庖廚 等に浪費して各般の施設を妨ぐるのみならず、風紀衛生上に及ぼす弊害も亦少なからず、之を改善するには実に都市に於る地積の経済にして同時に商工業発達の一助たるべきを痛感せり」- 多摩川園で催された澁澤栄一子爵歓迎会席上において、青淵回顧録
^ 「理想的住宅地」の要件として1、土地高燥にして大気清純なること。2、地質良好にして樹木多きこと。3、面積少なくとも十万坪を有すること。4、一時間以内に都会の中心地に到着し得べき交通機関を有すること。5、電信、電話、電灯、ガス、水道などの完整させること。6、病院、学校、倶楽部等の設備あること。7、消費組合の如き社会的施設も有すること。をあげている。 - 『田園都市案内パンフレット』田園都市株式会社、1922年(大正11年)、1923年(大正12年)
^ 「理想的住宅地」における住宅の守るべき項目として1、他の迷惑となる如き建物を建造せざること。2、障壁はこれを設くる場合にも瀟洒典雅のものたらしむること。3、建物は三階建て以下とすること。4、建物敷地は宅地の五割以下とすること。5、建築線と道路との間隔は道路幅員の二分の一以上とすること。6、住宅の工費は坪当たり百二、三十円以上にすること。をあげている。 - 『田園都市案内パンフレット』田園都市株式会社、1922年(大正11年)、1923年(大正12年)
^ 「洗足のサイトプランが出来上がると、図面を印刷し、電車開通前に売り出した。1922年(大正11年)の5月頃だったと思う。畑の土を掘って計画通りの道筋だけをつけた。だから道筋以外には青麦がはえ、馬鈴薯の花が咲いていた。そこをお客さんたちは図面をてにして、気に入った場所を物色して歩いた」分譲は好調であった。 - 渋沢秀雄『随筆 街づくり わが町』沿線新聞社、1971年(昭和46年)。
^ 田園都市株式会社は渋沢栄一が「日本橋の紳商で日本橋クラブ(経済人の集まり)に出資を求め設立」し、中野武営服部金太郎などそうそうたるメンバーが参加していた。その渋沢栄一自身は、起業するとき「1、国家社会に有益なこと。2、担当者に人を得ること。3、それ自体で儲かること。」をあげていたのであるが、たしかに理想的な住宅地建設は国家社会に有益であるが、「事業のほうは経営者が素人ばかり」つまりその設立当時は、とても営利を目的としている企業とは言えず、渋沢栄一が実業界引退後に設立した事を含め稀有な会社であった。『矢野恒太伝』矢野恒太記念会、1957年(昭和32年)。
^ この鉄道部門である荏原電気鉄道は、田園都市株式会社が鉄道敷設免許を得るために便宜上設立したペーパーカンパニーであった。1920年(大正9年)3月6日に施設免許が下りたが、同年5月18日には田園都市株式会社が施設免許を譲り受け荏原電気鉄道は事実上消滅した。その後、他に下りた施設免許も含め、1922年(大正11年)7月22日に目黒蒲田電鉄に譲受され、同年9月2日に目黒蒲田電鉄が正式に設立された。 - 「田園都市株式会社、設立趣意書・目論見書・定款」田園都市株式会社、1922年(大正11年)
^ 高級住宅地の代名詞となった田園調布-『高級住宅街の真実 セオリー2008 vol.2』講談社 2008年3月25日
^ 「私は田園調布の西側に半円のエトワール型を取り入れてもらった。この分譲地のサイト・プランを依頼した矢部金太郎君に注文をつけたのである」田園調布の街はエトワール型の道路を造り、街路樹を植え、広場と公園を整備し、塀は生け垣とし、庭を広くとり緑地の一部とし、街全体が庭園のようになっている。 - 渋沢秀雄『随筆 街づくり わが町』沿線新聞社、1971年(昭和46年)。
^ 「交通機関としては、目黒駅からこの住宅地まで電気鉄道を開通させます。すなわち、この電鉄は田園都市株式会社が巨費を投じて特に居住者に交通の便を提供するものであります」 - 『理想的住宅案内』田園都市株式会社、1922年(大正11年)。
^ 渋沢栄一が45万の土地を抱えていた田園都市株式会社の経営に困っている時、第一生命保険の創業者で田園都市株式会社の大株主であった矢野恒太に経営を見てくれないかと言ったところ、同じ第一生命の役員であった和田豊治が「小林一三に知恵を借りたらどうか」とアドバイスした。矢野は小林に会って助力を求めた。最初は固辞したが、上京して話だけでもしてくれないかと懇願され、月に一度役員会に出席するようになり、田園都市株式会社を経営していった。 - 『矢野恒太伝』矢野恒太記念会、1957年(昭和32年)。
^ 田園都市株式会社の経営に関し、小林は「名前を出さず、報酬も受け取らず、月に一回日曜日のみ」という約束で経営を引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めたという。
『中野武営と商業会議所』1017頁
大阪府池田市にある小林一三記念館パネル展示(2011年9月閲覧)
^ 小林一三は、田園都市株式会社の役員に名は連ねていないが、実質的に経営しており、また1928年(昭和3年)5月から1936年(昭和11年)11月まで目黒蒲田電鉄および(旧)東京横浜電鉄の取締役に就き、五島慶太の後ろ盾となっていた。
^ 田園都市株式会社は、中野武営や服部金太郎などそうそうたるメンバーが参加していたが、渋沢栄一から経営を見てくれと言われた矢野恒太は「事業のほうは経営者が素人ばかり」と困り、また矢野から経営を依頼された小林一三もその経営を見て「呆れてものがいえぬ」と困り果てたのである。 - 『矢野恒太伝』矢野恒太記念会、1957年(昭和32年)。
^ 「僕がどうやって五島慶太君をつかまえて矢野恒太さんに推薦したか内輪話を聞かせてあげる」小林一三は武蔵電鉄が持っていた田園調布から蒲田までの鉄道施設権が欲しかったのである。既に目黒蒲田電鉄は目黒から田園調布の施設権を持っていたが、蒲田まで延長すれば省線の駅同士を結ぶことができ、かつ乗車効率が高まるからである。また国からの補給利子(補助金)もより多く受けることができた。そこで武蔵電鉄の五島慶太をスカウトし、武蔵電鉄の施設権と五島慶太を一挙に手に入れたのである。 - 『小林一三と矢野一郎との対談』実業之日本、1952年(昭和27年)2月。
^ 小林一三が五島慶太を目黒蒲田電鉄にスカウトする時「もしコンガラがった場合、目黒電車の開通がのびのびになると困る。そこで考えた」その当時、阪急神戸線の神戸乗り入れ線は、高架線で神戸に乗り入れるか地下線で乗り入れるかでゴタゴタしていた。神戸市会が地下線で建設することを条件に許可したのだが、阪急は高架線に変更し建設し始めたからである。そこで、小林一三は元鉄道省総務課長であった五島慶太を、まず阪急の顧問として招聘したのである。その関係を保ちながら目黒電車入りを勧め成功した。そして1927年(昭和2年)10月、阪急神戸線を全線高架式に変更すると申請しなおした。その後、五島の働きかけもあり内務省、鉄道省は阪急神戸線の高架計画の申請を許可した。「神戸市内高架線の成功は、五島顧問のおかげだった」阪急にとっても役立ったのである。 - 『篠原三千郎氏を偲ぶ』東京急行電鉄、1954年(昭和29年)。
^ 小林一三から「荏原電鉄(後の目黒蒲田電鉄)を先に建設し、田園都市の45万坪の土地を売り、その利益で武蔵電鉄をやればいい」と説得され専務就任を決心した。- 『私の履歴書』 第一集(日本経済新聞社、1957年2月10日)P12。
^ 「東京市内の地獄絵みたいな無残さ、惨たらしさとはうらはらに、洗足地区は何と美しかったろう。まさに天国と地獄だった。最大の被害でも壁に亀裂が入り、レンガがズレ落ちた程度だった。」 - 渋沢秀雄『随筆 街づくり わが町』沿線新聞社、1971年(昭和46年)。
^ 東京横浜電鉄沿革史では姉妹会社と言う表現を使っているが「田園都市株式会社」「目黒蒲田電鉄」「(旧)東京横浜電鉄」は、その成立経過から資本も同じ、経営者も同じ、つまり事実上の同一会社である[18]
^ 「渋谷?丸子多摩川間は、目蒲線と並行路線であるので、目蒲線への影響が大きい。まず、丸子多摩川?神奈川間を建設して目蒲線と直通運転を行うこと、そして目蒲線が成長してから渋谷線に着手すること」渋谷線の建設は目蒲線の経営が安定してからとなったのである。- 東京急行電鉄株式会社社史編纂事務局 1973 II 充実編、第一章 鉄道業の充実、1 東横線の建設、2)神奈川線の建設 神奈川線から着手した理由。
^ 五島慶太は阪急での百貨店経営の成功を東横電鉄にも取り入れるため、1932年(昭和7年)4月からデパート建設を準備した。
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