東京急行電鉄
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それに伴い従業員を阪急百貨店だけでなく、島屋松坂屋にも研修に出したが、老舗百貨店であった三越はこれを拒否した。また、1934年(昭和9年)11月、東横百貨店が開業してからも、五島慶太が「呉服会を改称した日本百貨店協会」に参加しても三越からは相手にもされなかった。その後、1938年(昭和13年)、三越取締役でもあった故・前山久吉の遺族から三越株を買わないかと話があり、「幸い東横百貨店を経営しているから、三越と東横百貨店を合併して、東横百貨店を三越の渋谷支店にしてみたらどうだろう。と三越株の10万株を買った」。 三越株の6分の1を買い占めたいわゆる「三越乗っ取り事件」である。この三越は慶応閥であり、塾員である小林一三から「渋谷のような田舎の百貨店が三越を買収するのは、蛙が蛇を呑むより無理」といわれ、また慶応閥であった三井銀行とそれに呼応して三菱銀行からの東横電鉄に対する融資が停止され、結局、三越買収を断念した。しかしこの時、90円で買った三越株を150円で全株売却し、膨大な売却益を得たのであった。
『私の履歴書』第一集、五島慶太、8.「三越の乗っ取り失敗」P18-20、日本経済新聞社、1957年(昭和32年)2月10日
『東急外史 顔に歴史あり』第四話「三越乗っ取り事件とその裏にうごめくもの 取り押さえ損ねた”ライオン”」P109-120、沿線新聞社、1982年(昭和57年)4月15日
^ 「私は小林一三の知恵をかりた。まま教えを受けたというところだ。実業家になって以来三十年間というもの、何でも彼に相談した。そして小林一三を後ろのつっかい棒にした。倒れかかると小林がつっかい棒をしてくれた。私は小林一三に敬意を表している」東急は「阪急の小林の手法」を用いたというより、小林一三が五島慶太の後ろ盾となり、田園都市株式会社、目黒蒲田電鉄、(旧)東京横浜電鉄の経営に直接、間接に関与していたのである。 - 五島慶太『70年の人生』要書房、1953年(昭和28年)。
^ 「東急の経営は阪急の方針をとり、全て小林イズムを踏襲して参りました」 - 五島慶太、小林一三追悼式での言葉、1957年(昭和32年)3月8日、東京宝塚劇場に於いて。
^ 「蔵前の1万2千坪の土地は、間もなく復興局の材料置き場として240万円(売却益は150万円以上、簿価より計算、五島は180万円と記載)で買収されたので、私はこの金で武蔵電鉄の株式の過半数を買収した。名称を東京横浜電鉄と改め、いよいよ東横線の建設に着手した」1924年(大正13年)1月8日、田園都市株式会社は、大岡山所在の社有地9.2万坪と蔵前所在の東京高等工業学校(現・東京工業大学)敷地1.2万坪と等価交換、同年6月、蔵前の土地は震災復興局に転売、震災による土地高騰もあり、240万円で買収され、その売却益で武蔵電鉄の株を購入することにより東横線建設の資金とした。 - 五島慶太『70年の人生』要書房、1953年(昭和28年)。
^ 「慶応義塾の敷地を拡張移転せしむべしとの論が起り、関東大震災で被害復旧が一段落を告げる頃から、ようやく郊外に広き土地を買い入れ、主に予科を移転し、候補地を神奈川県に求める」との論起り「かくするうち、東京横浜電鉄から、日吉台の土地七万二千余坪を無償提供すると申出あり」「この間、東京横浜電鉄株式会社の関係者の一人である塾員小林一三は終始好意的に斡旋につとめた」、慶応の卒業生であった小林一三は母校の日吉への誘致に積極的に関与する。 - 『慶応義塾100年史』慶応義塾大学、1964年(昭和39年)。
^ 最寄りの駅・都立大学駅の名称は、柿の木坂駅から、府立高等前駅、府立高等駅、都立高校駅、都立大学駅に、校名変更に伴って改称された。大学は東京都八王子市に移転して名称も首都大学東京に変更されたが、駅名は変更されず存続している。なお大学名は2020年度から再び「東京都立大学」に改称された。
^ 最寄りの駅・学芸大学駅の名称は、碑文谷駅から、青山師範駅、第一師範駅、学芸大学駅に、校名変更に伴って改称された。大学は移転したが駅名は存続している。
^ 1920年(大正9年)3月6日、田園都市株式会社傘下の荏原電気鉄道に大井町 - 調布村間の地方鉄道敷設免許が下り、同年5月18日、田園都市株式会社は施設免許を譲り受け、1921年(大正10年)2月15日には大崎町 - 碑衾村間の鉄道敷設免許もおりる。しかし鉄道省が「文化住宅地からの通勤線としては山手線と直結すべき」と助言したため、大井町までの建設より、まず目黒から多摩川台(田園調布)まで目黒線の工事を先行し、大井町線の建設はその後となったのである。 - 「田園都市株式会社、設立趣意書・目論見書・定款」認可申請の添付書類より。田園都市株式会社、1922年(大正11年)。
^ 渋谷周辺の急勾配や東京横浜電鉄との乗り換えなど路線設置上の問題から、玉川電鉄の社有地に東京高速鉄道の渋谷駅を作りたかったのである。玉電買収後の1938年12月に玉電ビル(4階建)が完成、その3階に現在の銀座線のホームと改札が作られた。その後、増改築を繰り返し、1954年11月、東横百貨店東横店西館(11階建)と改称された。2019年12月まで、東京メトロの駅が民間ビル(東急百貨店東横店)の中にあったのはこの時の名残である。
^ 五島慶太が「東横線が我々の祖業である、この線が滞りなく走っていれば東急の事業は安泰だ」と語ったように(旧)東京横浜電鉄は(新)東京横浜電鉄における事実上の主力となった。-『日本の私鉄 東京急行電鉄』毎日新聞社 2011年1月30日
^ 大東急発足前の小田原急行鉄道、その後の(旧)小田急電鉄は、現在の小田原線江ノ島線と帝都電鉄井の頭線(現在の京王電鉄井の頭線)を経営していた。
^ 田園都市株式会社の大株主であり1921年(大正13年)10月から1928年(昭和3年)5月まで(旧)東京横浜電鉄の会長・社長を務め、1927年(昭和2年)4月から1928年(昭和3年)5月まで田園都市株式会社と目黒蒲田電鉄の社長を務めていた。この経緯もあり、現在でも第一生命が東急電鉄の筆頭株主である[28]
^ この時の「京浜電気鉄道との品川までの施設権」は後の営団地下鉄が引き継いだのであるが、戦後の復興期に、営団だけでは地下鉄道の建設が追いつかないという東京都の主張が受け入れられ、1956年(昭和31年)都市交通審議会の答申で1号線(都営地下鉄浅草線)として戦前からの東京市の念願だった地下鉄道を実現することになり、また同時に泉岳寺駅での京浜急行との乗り入れもかなった。
^ 1939年(昭和14年)4月21日、五島慶太が京浜電鉄の取締役に、また湘南電鉄の専務取締役に選任された。
^ 相互乗り入れするまでの8か月間、新橋駅に東京高速鉄道と東京地下鉄道のホームが別々に存在していた。現在利用されているのは東京地下鉄道のホームであるが、東京高速鉄道のホームも残存しており車両留置や資材置き場などに活用され、また「幻のホーム」として特別イベントで公開されることがある。
^ 東京地下鉄道の株を、東京高速鉄道(東横電鉄)の五島慶太が買収したのであるが、「この時は鉄道省だけでなく、政界、日本銀行を含む財界を巻き込む騒動となってしまった。」この騒動を陸上交通事業調整法を用い「いわば、けんか両成敗で」仲裁に持ち込み、その後、帝都高速度交通営団として吸収してしまったのは、五島慶太の東京帝国大学法学部、および鉄道省の後輩、佐藤栄作(後の内閣総理大臣)であった。 - 佐藤栄作『今日は明日の前日』フェイス社、1964年(昭和39年)
^ 京王は電力国家管理法が交付されるまでは業績が良好であったこともあり、会長であった井上篤太郎は「我が城(京王)は小さくともダイヤモンドだ。東京急行は規模はでかいかも知れないが瓦礫の山だ」と言って、東急との合併に最後まで反対した。 - 『東急外史 顔に歴史あり』沿線新聞社、1982年(昭和57年)。
^ 五島は「時にはやむを得ず、株買い占めという強硬手段も採らざるをえないこともあったが」と言っている。 - 『私の履歴書』第一集(日本経済新聞社、1957年2月10日) P20
^ 五島は「世間で言うような単に私の征服欲、事業欲のためのみでなく、東横電鉄の社員を愛し、その老後の生活までを考え、あわせて会社の総経費を分割して、経費を下げるということからやったことである」と言っている。 - 『私の履歴書』第一集(日本経済新聞社、1957年2月10日) P20。
^ (旧)小田急系の帝都電鉄は(旧)小田急電鉄から分離され、(旧)京王電気軌道系の京王帝都電鉄の所属となり、京王井の頭線となった。
^ 田園都市株式会社が開発した45万坪(148万平方メートル)の約11倍の規模である。
^ 1968年(昭和43年)4月、つくし野駅まで延伸。1972年(昭和47年)4月、すずかけ台駅まで延伸。1976年(昭和51年)10月、つきみ野駅まで延伸、全線複線化完成。1984年(昭和59年)4月に中央林間駅までの全線が開業した。
^ 日比谷線では当初から北千住側で、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)とも相互乗り入れをしているが、東横線からの車両の乗り入れは北千住駅までで、営団の車両(3000系03系)でも東横線との運用の場合は乗り入れは北千住駅までとなり、その後開通した東京メトロ千代田線のように3社(3線)をまたいで乗り入れることはなかった。
^ a b 目黒線は書類上は目黒駅 - 田園調布駅間であるが、東横線の複々線のうち2線を利用して2000年8月6日から武蔵小杉駅まで運行、2008年6月22日に日吉駅まで延長して運行している。
^ 田園調布駅から日吉駅までの複々線区間は、目黒線に乗り入れている都営三田線と埼玉高速鉄道を含め計7社が乗り入れている。
^ ただし、日比谷線の車両の分解・検査業務が東京地下鉄鷺沼車両基地で行われているため、中目黒駅 - 鷺沼駅間の回送運用は存続している。
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