東京府
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旧民政裁判所が管理していた事務については、同年11月3日(9月18日)に鎮将府会計局[注釈 5]と東京府との管理事務の範囲を定め、東京市中の各種の徴税事務は東京府がこれを管理することとし、市街地、薬物苑、植物園等すべて東京府の管理に属させ、会計局に税を納付させることになる[37]

旧社寺裁判所が管理していた事務については、同年11月4日(9月19日)に東京府内の社寺からの願伺届の提出先を鎮将府から東京府へ移した[38] [注釈 6]

同年12月3日(10月19日)に鎮将府を廃止したことに伴い[45] [46]、病院と医学所は東京府の支配とした[47] [48] [49]

武家屋敷については、同年12月28日(11月15日)に会計官営繕司から東京府へその取り扱いを移した[50] [51] [52] [注釈 7]。しかし武家地の管轄については明らかではないことから取り締まりが行き届かなかったため、翌1869年12月4日(明治2年11月2日)に東京府下の武家地を東京府の管轄とすることになる[53] [54]。このとき戸籍調査や地方関係の事件を東京府が直接管理することになり、これまで武家地に関係する場合に事件の呼び出しは東京府から弁官を経由していたところ、東京府から達することになる[55] [56]

1869年4月27日(明治2年3月16日)に、朱引内町地の人口1万人を1区として区分けしたうえ区を「番組」と名づけ、既市街地約90km2に50番組を置いた[4]

同年4月21日(3月10日)に、名主227名全員罷免[4]。代替として翌日に「中年寄」および「添年寄」を、同年6月17日(5月8日)に、朱引外の群政方支配所村町であった荒廃地および農村部190町89村を地方5番組に統括し各区に中年寄および「大年寄」を置き、同年7月30日(6月22日)「町年寄」を新設[4]し、東京府の準官吏として任命。名主業務を新設の各「町用取扱所」に移管させた。

同年に、府民550人を函館根室および宗谷へ移植し、翌1870年 7月11日(明治3年6月12日)に、失業対策として北海道花咲郡(後の色丹郡を除く)、根室郡野付郡を領有(北海道の分領支配)したが、これは同年11月3日(10月9日)に解消した[57]
廃藩置県と地域再編「廃藩置県」も参照

1871年(明治4年)4月、4ないし5か旧町または7ないし8か旧村をして1区と改めて再び区分けを為して番組を廃す。年寄職を戸長、副戸長に改める。同年7月14日廃藩置県が実施され、東京府は京都府大阪府とともに三府の一つとされた。三府は、首都あるいはその代替地とされていた。

同年12月25日[58]、東京府のほか現在の関東地方に存在していた各県が廃止され、武蔵国荏原郡豊島郡、および多摩郡足立郡葛飾郡のそれぞれ一部を管轄区域とする東京府が改めて設置されることとなった[59]

ただし多摩郡は横浜に居留する外国人の遊歩区域に一部含まれるとの神奈川県知事・陸奥宗光の上申により、1872年(明治5年)11月23日に全域が神奈川県の管轄とすることに変更された[60]

旧来の東京府の区域については、1月8日に6の大区の下に97の小区を置き「大区小区制」が敷かれた。廃止各県からの行政の移管は3ヶ月ほどかけて順次行われ、1月14日に旧品川県[61]、1月24日に旧浦和県[62]、3月3日に長浜県(世田谷飛地[63]、3月16日に旧小菅県[64]から各町村が編入された。この際、多摩郡の一部は品川県・長浜県から一旦東京府に編入されたが、3月1日に神奈川県に移管され[65]、次いで10月12日に現在の中野区、杉並区の区域が東京府の管轄に戻る[66]。これら編入された区域は旧県時代の区割りのまま呼ばれていたが、1873年3月18日に5の大区を設けて総計11大区103小区となった。

1872年(明治5年)、東京府は「戸籍法」の定めるところにより新府域に繰り込まれながらも地名の判然としなかった旧耕地に「有楽町」「霞ヶ関」「三田」など新町名を冠し、地券を交付した。1878年(明治11年)1月11日、静岡県から伊豆諸島を編入[67]

さらに同年11月、大区小区制を廃し「郡区町村編制法」により旧府域に15区を置く。同時に、旧葛飾郡域を「南葛飾郡」、旧足立郡域を「南足立郡」、旧多摩郡域を「東多摩郡」にそれぞれ改称させ、なおかつ旧豊島郡を南豊島郡北豊島郡の南北2郡に分かち旧荏原郡を復活させて都合6郡を設けた。このうち東多摩郡と南豊島郡は1896年に合併されて豊多摩郡となった。

同年12月、第一回府会議員選挙が行われ49名が当選。第一回東京府会が開かれた。

1880年(明治13年)10月8日、内務省から小笠原諸島を引継ぎ[68]、同年10月28日に出張所を設置する。
多摩地域移管

1892年(明治25年)、内海忠勝神奈川県知事と富田鐵之助東京府知事は、当時は神奈川県に属していた西多摩郡南多摩郡北多摩郡の東京府への移管を井上馨内務卿に建言した。これらの地域は現在の多摩地域世田谷区の一部にあたる。前述の通り多摩地域は当初東京府・入間県に分属していたほか、東京府への移管の議論は以前からあったもので、理由は玉川上水水利権の管理および奥多摩地域の水源確保のためとされていたが、自由民権運動が盛んだった多摩地域と現神奈川県地域とを分断するためという噂も立った。このため、神奈川県会では移管反対派乱入事件が発生した。

1893年(明治26年)2月、「s:東京府及神奈川県境域変更ニ関スル法律案」が可決した。多摩3郡の各首長は反対の意志を表して県知事に辞表を提出したが、同年3月6日に同法は公布され、同年4月1日、多摩地域は神奈川県から東京府へ編入され、現在の町田市等を除き、ほぼ現在の東京都の境域が確定した。
東京市制施行

この間、1889年(明治22年)5月1日に東京府内15区を東京府から分立して市制を施行し東京市としたが市制特例により東京市長は府知事が兼ねた(府知事の市長兼務は1898年10月1日に廃止)。

1896年(明治29年)、東京市を「都」に改めて官選都長を置く「東京都制案」、府郡部を県とする「武蔵県設置法案」ともに帝国議会不成立。

1897年(明治30年)、市長を公選とする「東京市制案」、府郡部を県とする「千代田県設置法案」ともに帝国議会不成立。

1898年(明治31年)、市制特例が廃止。東京市役所が開設され、松田秀雄が初代東京市長となる。
関東大震災

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災発生により、東京市を中心に甚大な被害を受ける。


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