東京市歌
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吉田の死因については『市民読本』と同年に刊行された『市民の歌へる』巻末の訃報において、震災で店舗を全焼した後に再建のため奔走していたが病魔に侵され11月に亡くなった旨が記述されている[7][注 1]

東京都の公式サイトでは「東京市歌」の制定年を発表音楽会が開催された1923年や『市民読本』が刊行された1924年ではなく、1926年(大正15年)としている。この年に刊行された『東京市政概要』大正15年版で「東京市歌」と「東京市童謡」の歌詞と楽譜が掲載されたことから、両曲が広く市民に知られるようになった[8]1932年昭和7年)11月には日本コロムビアから「東京市民歌」の表題で米倉俊英、またB面曲として「東京市童謡」を大川澄子がそれぞれ歌うSPレコードが発売されている。なお牛塚虎太郎市長の在任中(1933年 - 1937年)に作成された東京市の広報盤「選挙粛正ニ就イテ帝都市民諸君ニ愬フ」(A293)B面や、1940年(昭和15年)の紀元二千六百年記念行事として作成された5枚組の記念盤では「東京市民歌」でなく「東京市歌」が表題とされている[9]
その後「東京市歌」作詞者の高田耕甫(高田休廣)

「東京市歌」を作詞した高田は、長崎高等商業学校校長在職中であった1942年(昭和17年)1月に赴任先で急逝した。

東京市は1943年昭和18年)7月1日東京都制施行に伴い東京府と共に廃止され、東京都が成立した。しかし「東京市歌」は1947年(昭和22年)に「東京都歌」が制定されて以降も廃止されず、準都歌的な扱いで現在も存続している。東京都の公式サイトで紹介されているのは歌詞のみであるが、楽譜は『市民の歌へる』や『東京市政概要』大正15年版、また『山田耕作全集7 国民歌謡曲集』(春秋社1930年)および『東京のうた その心をもとめて』(朝日新聞社1968年)等に掲載されている[10]
歌詞.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}本作の歌詞は著作物の本国においてパブリックドメインであり、アメリカ合衆国においてもウルグアイ・ラウンド協定法の対象外です。

「東京市歌」の1番の歌詞は武蔵野が一面の原野だった時代を偲ぶ内容であるが、2番と3番の歌詞は一転して日本の首都(帝都)としての東京市の発展を讃えるものとなっており、特に2度繰り返される「大東京」という表現は後裔たる「東京都歌」にも受け継がれている。

「東京市歌」および「東京市童謡」は歌詞・旋律とも著作権の保護期間を満了し、パブリックドメインとなっている。
東京市歌一、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}紫匂(むらさきにお)いし 武蔵(むさし)の野辺(のべ)に日本(にほん)の文化(ぶんか)の 花(はな)さき乱(みだ)れ月影入(つきかげい)るべき 山(やま)の端(は)もなき昔(むかし)の広野(ひろの)の 面影(おもかげ)いずこ

二、高閣(たかどの)はるかに 連(つら)なりそびえ都(みやこ)のどよみは 渦(うず)まきひびく帝座(みくら)のもとなる 大東京(だいとうきょう)の伸(の)び行(ゆ)く力(ちから)の 強(つよ)きを見(み)よや

三、大東京(だいとうきょう)こそ 我(わ)が住(す)むところ千代田(ちよだ)の宮居(みやい)は 我等(われら)が誇(ほこ)り力(ちから)を合(あ)わせて いざ我(わ)が友(とも)よ我等(われら)の都(みやこ)に 輝(かがや)き添(そ)えん
東京市童謡一、日本一(にっぽんいち)の 東京(とうきょう)よそれはどなたが したのですじいさま ばあさま したのです

二、東洋一(とうよういち)の 東京(とうきょう)よそれはどなたが したのですとうさま かあさま したのです

三、世界一(せかいいち)にや まだならぬそれはどなたが するのですそれは わたしが するのです
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 読売新聞1923年6月24日付5面によれば、吉田栄次郎(1898年 - 1923年11月)は浅草区吉原(現在の台東区千束)生まれの数え26歳。精華高等小学校台東区立蔵前小学校の前身校の一つ)を卒業後に深川の材木商で奉公人として働くようになり、入選時は番頭だったとされている。

出典^ レファレンスの杜, pp182-183
^ 東京朝日新聞、1923年6月24日付2面「大東京の市歌 けふ当選発表」。
^ 読売新聞、1923年6月24日付5面「市民の歌と童謡」。
^ レファレンスの杜, p184
^ NDLJP:939572
^ 東京のうた, p131
^ 市民の歌へる, p177
^ レファレンスの杜, p186
^ 長谷川玲「【研究ノート】レコード原盤の音声復元 ?東京市作成 紀元2600年記念レコード?」(東京都公文書館


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