東京大空襲
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焼夷弾の開発に迫られたアメリカ軍はアメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将自らイギリスに飛んでイギリス軍の焼夷弾と、イギリス軍がロンドン空襲において回収していたドイツ軍の不発弾(900gマグネシウム弾)を譲り受けて焼夷弾の開発を開始した[15]

日本に投下された主な焼夷弾

M47焼夷爆弾(AN?M47A2)。100ポンド(45s)のナパーム弾(ゲル化ガソリン)でアメリカ軍最初の焼夷弾。鉄製の弾筒内にゼリー状に加工した油脂約18sを封入し、弾頭に火薬を装填した。屋根を突き破って屋内に入り爆発してナパーム剤を円錐状に飛散させた[16]

M50焼夷弾(AN?M50A2)。4ポンド(1.8s)のマグネシウム焼夷弾で、イギリス軍のM2焼夷弾をアメリカ陸軍が制式化したもので、アルミニウム粉末と酸化鉄を六角形の形をした筒状の金属製容器に充填している。直径5cm、長さ35cm、重量2sで小型の焼夷弾であり、34発が収束されていたが、一定の高度でバラバラになって落下した。元々はドイツのコンクリート建造物を破壊する目的で製造されたが、木造の家屋によく適していた[16][17]

M69焼夷弾(AN?M69)。6.2ポンド(2.7s)ナパーム弾。1942年に開発されたM56尾部点火式爆弾の改良型。直径8cm、長さ50cm、でM50焼夷弾と同様に、六角形の金属製容器にゼリー状のナパーム剤とマグネシウムが充填されてあったが、通常38発が収束されてE46-500ポンド収束爆弾(クラスター爆弾)として投下された。一定の高度でバラバラになって落下したが、他の焼夷弾との相違点は水平安定板がなく、代わりに1.2mの「ストリーマー」と呼ばれる綿製のリボンが落下時に尾部から飛び出して、姿勢の安定と落下速度の調整を行った。日本家屋の瓦屋根を貫通させるためには激突時の速度をあまり早くする必要はなく、ストリーマーによる減速で M50焼夷弾の1/4の速度に抑えられた。このストリーマーに火がついて燃えながら落下してくることが多かったので、あたかも“火の雨”が降ってくるように見えたという。六角形の金属製容器が建物の屋根を突き破ると、導火線が作動し5秒以内にTNT火薬が炸裂、その後に混入されたマグネシウム粒子によって、布袋に入ったナパーム剤を点火し、その推力で六角形の金属製容器を30m飛ばして半径27mもの火の輪を作り周囲を焼き尽くした[18][17]。内部に詰められたゼリー状のナパーム剤から、この焼夷弾は「goop bomb」(ベトベト爆弾)と呼ばれていた[19]
アメリカ軍はM69焼夷弾の開発にあたって、1943年3月にダグウェイ実験場ユタ州)での実戦さながらの実験を行っている。その実験というのは演習場に日本式家屋が立ち並ぶ市街地を建設し、そこで焼夷弾の燃焼実験を行うといった大規模なものであったが、日本家屋の建築にあたっては、日系人の多いハワイからわざわざ資材を取り寄せ、日本に18年在住した建築家が設計するといった凝りようであり、こうして建てられた日本家屋群には日本村という名前が付けられた[20]。M69焼夷弾のナパーム剤で炎上した日本式家屋は、日本の消防隊を正確に再現した消防隊の装備では容易に消火できず、日本に最適の焼夷弾と認定された[19]

3月10日の大規模空爆で使用されたナパーム弾は、ロッキーマウンテン兵器工場で製造された[21]
毒ガス散布計画案

連合国は、東京市に効果的に毒ガスを散布するための詳細な研究を行っており、散布する季節や気象条件を始めとして散布するガスの検討を行い、マスタードガスホスゲンなどが候補に挙がっていた[22]アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは「我々が即座に使え、アメリカ人の生命の損失が間違いなく低減され、物理的に戦争終結を早めるもので、我々がこれまで使用していない唯一の兵器は毒ガスである」とも述べていた。アメリカ陸軍はマスタードガスとホスゲンを詰め込んださまざまなサイズの航空爆弾を86,000発準備する計画も進めていた[23]。また、アメリカ軍は日本の農産物に対する有毒兵器の使用も計画していた。1942年にメリーランド州ベルツビル(英語版)にあるアメリカ合衆国農務省研究本部でアメリカ陸軍の要請により日本の特定の農産物を枯れ死にさせる生物兵器となる細菌の研究が開始された。しかし、日本の主要な農産物であるサツマイモなどは細菌に対して極めて抵抗力が強いことが判明したので、細菌ではなく化学物質の散布を行うこととなり、実際に日本の耕作地帯にB-29で原油と廃油を散布したが効果はなかった。さらに検討が進められて、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸を農作物の灌漑用水に散布する計画も進められた[24]

人間に対して使用する細菌兵器の開発も進められた。炭疽菌を充填するための爆弾容器100万個が発注され、ダウンフォール作戦までにはその倍以上の数の炭疽菌が充填された爆弾が生産される計画であった。これら生物兵器や化学兵器の使用について、1944年7月にダグラス・マッカーサー大将たちとの作戦会議のためハワイへ向かうフランクリン・ルーズベルト大統領を乗せた重巡洋艦ボルチモア艦内で激しい議論が交わされた。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒは「大統領閣下、生物兵器や化学兵器の使用は今まで私が耳にしてきたキリスト教の倫理にも、一般に認められている戦争のあらゆる法律にも背くことになります。これは敵の非戦闘員への攻撃になるでしょう。その結果は明らかです。我々が使えば、敵も使用するでしょう」とルーズベルトに反対意見を述べたが、ルーズベルトは否定も肯定もせず曖昧な返事に終始したという。結局、生物兵器や化学兵器が使われる前に戦争は終結した[25]
空襲の経過
背景フィリピン海(図中央)の東に位置するマリアナ諸島。南端はグアムで、北には小笠原諸島があり、伊豆・小笠原・マリアナ島弧を形成している。「日本本土空襲」および「ドーリットル空襲」を参照

1942年4月18日に、アメリカ軍による初めての日本本土空襲となるドーリットル空襲航空母艦からのB-25爆撃機で行われ、東京も初の空襲を受け、荒川区、王子区、小石川区、牛込区が罹災した[26][27]。死者は39人[28]。「マリアナ・パラオ諸島の戦い」および「サイパンの戦い」を参照

1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾ナパーム弾)の使用に関しても言及[29]。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない[30]

1944年からのマリアナ・パラオ諸島の戦いマリアナ諸島に進出したアメリカ軍は、6月15日にサイパンの戦いサイパン島に上陸したわずか6日後、まだ島内で激戦が戦われている最中に、日本軍が造成したアスリート飛行場を占領するや、砲爆撃で開いていた600個の弾着穴をわずか24時間で埋め立て、翌日にはP-47戦闘機部隊を進出させている。


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