東京大学医科学研究所
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1914年大正3年)10月4日に所長にもはかられずに閣議決定し、10月14日、内務省から文部省に移管(勅令)した。

11月5日、この文部省への移管に対し、所長から所員たちが皆、大反対して、それ決定への抗議の意思として総辞職となり、北里柴三郎は新たに私立「北里研究所」を設立して研究を続けた。

1916年(大正5年)4月1日、文部省に移管された「伝染病研究所」は、東京帝国大学附置伝染病研究所となった。

1947年昭和22年)、厚生省所管の国立予防衛生研究所(現:国立感染症研究所)が設置され、本研究所職員の約半数が移籍した。

国内社会の衛生状態が改善されるのに伴い、1967年(昭和42年)、「感染症・がんその他の特定疾患に関する学理及びその応用の研究」を目的とする医科学研究所に改組した。

1892年の当初から病院を有している。

時計台のある3階建てのゴシック様式風の本館は、関東大震災1923年(大正12年))のすぐあとに、内田祥三(のちの総長)が耐震・耐火建築研究の実績に立って設計したものである[2]。本館の奥には、8階建ての真新しい病院棟と研究棟が並び、その左右には基礎研究と臨床研究のための建物が密集している。敷地面積約7万平方メートルに、緑に囲まれた公園を有し、2001年、近代医科学記念館を開設した。
沿革

1892年11月 - 私立伝染病研究所を設立。

1894年 - 大日本私立衛生会附属となる。芝区愛宕町の内務省用地を借り受け、新築移転。

1899年 - 内務省所管の国立伝染病研究所となる。

1905年4月 - 痘苗製造所および血清薬院を併合。

1906年 - 港区白金台に新築移転(現在地)。

1914年 - 内務省から文部省に移管。初代所長の北里柴三郎は、伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京帝国大学に合併される時、移管に反対して所長を辞任。この時、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出した。伝研騒動といわれる。北里柴三郎は、11月5日に私費を投じて北里研究所を設立した。

1916年 - 伝染病研究所が東京帝国大学の附置研究所となる。所長および所員は東京帝国大学教授および助教授でほかに専任技師、技手、書記などが多数、任務に服する。病源の検索、予防治療方法の研究、予防消毒治療材料の検査、伝染病研究方法の講習ならびに痘苗血清ワクチン等細菌学的予防治療品の製造および検定に関する事業を掌る。

1923年 - 関東大震災(大正12年)のすぐあとに本館(ゴシック様式風)が建設される。設計:内田祥三(のちの総長)。

1947年 - 主に検査・製造などに関わる部門などを厚生省所管の国立予防衛生研究所(現:国立感染症研究所)として分離。

1967年 - 伝染病研究所を改組して「医科学研究所」が設置された。

2001年 - 近代医科学記念館を開設。

歴代所長

初代
北里柴三郎 1892年11月30日?1914年11月5日(1899.4.5より国立)

事務取扱 福原鐐二郎 1914年11月5日?1915年1月15日


第2代 (兼)青山胤通 1915年1月15日?1916年3月31日

第3代 林春雄 1916年4月1日?1919年6月4日

第4代 長與又郎 1919年6月4日?1934年2月1日

第5代 宮川米次 1934年2月1日?1940年11月20日

第6代 三田村篤志郎 1940年11月20日?1944年5月13日

第7代 田宮猛雄 1944年5月13日?1949年3月31日

第8代 長谷川秀治 1949年3月31日?1956年3月15日

第9代 武田徳晴 1956年3月15日?12月1日

第10代 長野泰一 1956年12月1日?1958年12月1日


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