ところが、東京市が満を持して選定したこの「東京唱歌」は発表当初から市民や有識者の酷評が相次いだ。例えば、日本教育会発行の雑誌『日本教育』は1907年10月21日号で「東京市が多大の賞を懸けて募った唱歌は(中略)其の結果を見て余りの馬鹿らしさに茫然自失したもの蓋し我輩のみではあるまい」と前置きした後
1番で天皇を「帝王」と称することの不適切さ
5番で東京奠都により「千代田城」が「宮城」に改名したかのようなミスリード
10?17番で学校や銀行、会社、電気、ガス、汽車など社会基盤や生活インフラの充実を外形的に羅列した空疎な歌詞
18番で東京市が欧米の大都市に比べて「遜色なしといひ難し」としている点を始め、市民としての自覚や誇りを涵養する要素が無い
とした問題点を列挙し、世の中には鉄道唱歌や電車唱歌を卑俗だと嗤ふ者がある。併しこの歌に至つては鉄道唱歌、電車唱歌にすら劣ること数等である(中略)こんな愚劣極まる歌を以て東京市の唱歌とし、児童の志操を涵養しやうといふ市当局者の押しの太さ加減こそ底が知れない。苟くも日本帝国の主都たる東京市の市民がかゝる市歌を有せねばならぬといふのは何といふ情無いことであらう。予輩は東京市民の一人として言ふ、断じてこんなものは東京市唱歌とするの価値は無い。 ? 一記者「杜撰なる市歌」
と全否定する論評を掲載した[6]。また、芳賀矢一は『中央公論』1907年11月号掲載の寄稿「東京市の唱歌を評す」で、次にこの唱歌は現在を詠んだもので少しも永久的の性質を帯びて居ない。半永久的でもない。「今や明治の大御世に」「水道工事工成りて」「港もやがて築かれん」などいふのをみれば、この唱歌は築港の出来上ると同時に改作せられねばならぬ。「新橋、上野、飯田町、両国橋の停車場」といふのも、中央停車場の落成とともに廃句とならねばならぬ。 ? 「東京市の唱歌を評す」
と、4年前に一柳安次郎
が作詞した「大阪市の歌」とは対照的に「東京唱歌」は長期間にわたり歌い継がれることを想定した歌詞になっていない点を批判した[7]。「東京唱歌」は酷評により短期間で演奏されなくなり、事実上の撤回に至ったが1909年(明治42年)にジャーナリストで子爵の末松謙澄が改めて歌詞を書き起こし、この時には1907年版「東京唱歌」酷評の一翼を担った芳賀矢一も森?外や幸田露伴らと共に調査委員として歌詞の検討作業へ参加している[1]。末松が起草した「東京市歌」の歌詞も撤回された「東京唱歌」と同じく全20番から成ったとされるが、7月6日に東京市役所で末松と主査の上田萬年、佐佐木信綱、大口鯛二の4者が討議して最終稿が決定された後に作曲が難航を極めたため、未完成に終わった[1]。
「東京唱歌」撤回から16年後の1923年(大正12年)、第7代市長の後藤新平が提唱した『東京市民読本』発刊記念事業として歌詞を一般公募した「東京市歌」(作詞・高田耕甫、作曲・山田耕筰)が完成し、関東大震災後の1926年(大正15年)に制定された。東京市は1943年(昭和18年)の東京都制により東京府と合併したことに伴い廃止されたが、1926年制定の市歌に関しては旧東京市から都へ引き継がれ1947年(昭和22年)の「東京都歌」制定後も準都歌的な扱いを受けて現在に至っている。 東京市が1907年(明治40年)に「東京唱歌」を選定する以前の1900年(明治33年)、いずれも「東京唱歌」と題する複数の地理唱歌が私製により出版されている。
私製版「東京唱歌」
『東京唱歌』全48番(正文堂/盛林堂) NDLJP:855608
作詞:大槻如電 作曲:山田武城 編曲:山田源一郎