東京ローズ
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同校大学院在学中の1941年(昭和16年)7月に叔母・シズの見舞いのため、半年の滞在予定で来日したが、両親から「アメリカ人」として教育を受けていたため、日本人の生活様式や習慣には馴染めなかった。とりわけ彼女を悩ませたのは、アメリカには無かった銭湯での「混浴」と、アメリカの基準から見て「不衛生」な日本家屋便所であった。このため来日後、何度も両親へ「アメリカに帰りたい」という手紙を送っている[2]

同年12月の太平洋戦争開戦でアメリカへ戻ることが不可能となる[5]。戦時中に2度運航された、日米間の戦時交換船によるアメリカ渡航を申請するも、米国では日系人の強制収容が始まっていて帰国は叶わなかった[13]

アメリカで母親は日系人収容所へ行く途中に病死していた[14]。何度も日本の特高警察から日本国籍への帰化の圧力をかけられたが、拒否し続けた。
孤児のアン

日本での生活のため同盟通信社愛宕山受信所で外国短波放送傍受タイピングの仕事に就く。翌1942年(昭和17年)からは日本放送協会海外局米州部業務班でタイピストとして勤務する傍ら、日本軍の参謀本部の恒石重嗣少佐の下で対外宣伝ラジオ番組(プロパガンダ)のスタッフとなる。ラジオ・トーキョーにはアメリカの短波放送が聞けるラジオがあった[13]

日本語原稿を英語のアナウンス原稿に訳す作業を業務としていたが、連合国軍兵士へのアピール性が期待され、途中の1943年(昭和18年)11月からゼロ・アワーの女性アナウンサーとして原稿を読むことになり、「孤児のアン」と名乗って曲の紹介などをしていた[2]。それまでは3人の捕虜が番組を担当していたのをチャールズ・カズンズが起用したが、放送で密かに日本軍に抵抗していたことを打ち明けられ、DJを引き受けることになる[15]

終戦間際の1945年(昭和20年)7月、長年同棲関係にあった、日系ポルトガル人の同盟通信社員のフィリップ・ダキノ (Philippe d'Aquino) と結婚。ポルトガルは中立国であった。
反逆罪巣鴨プリズン拘置時の顔写真

終戦後の1945年8月に、昭和天皇東條英機、そして「東京ローズ」の3人のインタビューを取ることを夢として追っていた[13]アメリカの従軍記者の一人により「発見」され、2000ドル(当時は一軒家が買える値段で[13]現在の日本円の価値で600万円程度)で独占取材契約[2]、録画カメラの前で自分が「東京ローズ」だと言明した。自分が「東京ローズ」であると公言したのは戸栗が最初で最後だったため、「唯一の『東京ローズ』」として、日米マスコミの取材合戦が過熱し、強い関心の的となった。その為独占の契約を守れず、契約金2000ドルは支払われなかった[2]

その後、GHQに呼び出され、映画まで撮られる。しかし、米本土で「反逆者」という記事が出て反響を生む。アイバはGHQにより反逆罪(en:Treason#United States)容疑巣鴨プリズンに11か月間収監され、FBIの取り調べを受けた。同年11月27日付け「星条旗紙」には巣鴨プリズン収容者の待遇が記事となっており、「2人の女性(戸栗とアルベルグ)のお客さんに、おしゃべり禁止を強要することは困難だろう」と、戸栗の存在に触れた記述がなされている[16]釈放後は反逆罪で逮捕され、アメリカ本国に強制送還された後、最も反日感情が強かったカリフォルニア州[13]検事から「対日協力者」としてアメリカで最も重罪である国家反逆罪で起訴された。

裁判は1949年7月5日にカリフォルニア州サンフランシスコ連邦裁判所で開始された。陪審員は全員白人[4]で、総費用50万ドル[4](7億円)というアメリカ建国史上最大の裁判となった[4]

弁護側は、アメリカ兵の戦意を喪失させる意図はなかった等と、否認した[2]。弁護側の証人は、アイバが指示通りの仕事をしたと証言[17]し、検察側の証人として出廷した恒石元少佐も、アイバの仕事はアメリカへの反逆にはあたらないとの証言をおこなった[17]。一方検察側は、反逆の意思の有無に関係無く、放送に参加していたこと自体が問題であると主張し、アイバが自発的に番組に参加していた点も強調した[4]

裁判を取材していたマスコミは、アイバが無罪になると予想していた[4][5]が、1949年9月29日に下った判決は有罪で、禁錮10年と罰金1万ドル、アメリカ市民権剥奪などを言い渡され[4]、女性として史上初の国家反逆罪となった[18]。アイバは6年2ヶ月の服役後、模範囚として釈放された[4]

有罪判決については、トルーマン政権司法長官トム・C・クラーク(英語版)による陰謀説もある[18]
名誉回復

人種差別が合憲とされていた当時のアメリカにおいて、裁判の陪審員に問題があるなど、終始人種的偏見に満ちたものであったため、1970年代には日系アメリカ人市民同盟や在郷軍人たちによる支援活動が実り、有罪判決は疑問視されるようになった。

1976年に、裁判の証人だった元上司2人が「証言は事実でなく、FBIに偽証を強要され、リハーサルもさせられた」などと告白した記事を、アメリカ人日本特派員記者がスクープ報道した[2]

釈放後も市民権は剥奪されたままであり、居住地の制限も加えられるなど苦しい生活を強いられた。2度にわたり提出した嘆願書は黙殺されたが、1976年に三度目の嘆願書がようやく実り[19]1977年1月19日[注釈 3]フォード大統領による特赦によりアメリカの国籍を回復した[20]

その後シカゴに転居し、父が創業した輸入雑貨店「戸栗商店(J. Toguri Mercantile Co.)」で、晩年まで働いていた。当初は反逆者の汚名を着せられたアイバ・戸栗であったが、晩年の2006年1月には、「困難な時も米国籍を捨てようとしなかった“愛国的市民”」として退役軍人会に表彰され、感激の涙を流している[21]。2006年9月26日、脳卒中のため、90歳で死去。
東京ローズを題材にした作品
舞台


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