東京ヤクルトスワローズ
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大杉がこの年多くの記録を立て[注釈 13]、9月14日の大洋戦では1イニング5本塁打の日本タイ記録を達成した[13]。若松が2度目の首位打者、入団2年目のチャーリー・マニエルが42本塁打を放つ。62勝58敗10分けの勝率.517により、チームは球団創設以来初の2位に躍進。
1978年

前年の2位躍進に気をよくしたフロントは選手に対し「ブラジルへの慰安旅行」を計画したが広岡監督はこれに反対し「旅行するぐらいなら温暖な海外でキャンプを」と希望。これを受けて2月、球団史上初めて日本国外キャンプとなるアメリカユマキャンプを行う[17]。広岡の参謀として巨人時代の同僚だった森昌彦がヘッドコーチで入団、キャンプでテストを受けたデーブ・ヒルトンも加わり打線は厚みを増した[18]。初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り、失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日のダブルヘッダー第2試合、さらに杉浦亨が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団相手に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日の対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝を決めた。これにより、セ・リーグ全球団がリーグ優勝をした。日本シリーズではそれまで3年連続日本一だった阪急ブレーブスを4勝3敗で下し、初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で大野豊に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。なお、広岡監督が正力松太郎賞に、若松がチーム初のセ・リーグ最優秀選手に選出された。
1979年

マニエルの近鉄への放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる[19]。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人ジョン・スコットがサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月にヘッドコーチの森が解任され、これに激怒した広岡が途中休養(指揮権放棄)して辞任。打撃コーチの佐藤孝夫が監督代行を務めた。結局、この年は48勝69敗13分けで8年ぶりの最下位。日本一の翌年に最下位に転落するのは、1961年の大洋以来18年ぶり2度目の不名誉。
武上監督時代
1980年

武上四郎が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで巨人・中日・阪神・大洋から15勝以上挙げるが、広島に大きく負け越し。結局、この年優勝した広島に大差をつけられての68勝52敗10分けの勝率.567、2位に終わった。松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得した。オフに福富邦夫が現役を引退した。
1981年

マニエルが近鉄から復帰し、優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的な衰えで12本塁打に止まり、さらに若松、スコットが相次いで負傷し、外野陣が崩壊、出場機会が大幅に増えた代走・守備固め専門の青木実が盗塁王を獲得したが、チームは56勝58敗16分け勝率.491の4位に終わる。
1982年

優勝当時の主力である大杉、大矢明彦、松岡らの衰えと外国人選手ラリー・ハーローらの不振からシーズン序盤より最下位を独走。最終結果は45勝75敗10分け、勝率.375で首位の中日と23.5ゲーム離される。
1983年

ドラフトにて巨人との抽選の末入団交渉権を獲得した荒木大輔が入団し、近鉄とのトレードで井本隆を獲得する。しかし、チームは井本や松岡、ボビー・マルカーノらの不振もあり、53勝69敗8分けの勝率.434にて2年連続最下位に終わった。オフに大杉が現役引退。
1984年

4球団競合の末ドラフト1位で獲得したルーキーの高野光が開幕投手に大抜擢され話題となったが、開幕からチームは不振が続く。監督の武上がシーズン途中で休養し、西鉄・日本ハムでの監督を経験した中西太監督代行として指揮を執るも、途中で休養し、日拓ホームでの監督を経験した投手コーチの土橋正幸がシーズン終了まで監督代行として指揮を執ることになった。
土橋監督時代

※1984年の監督代行時代も含める。
1984年

この年は51勝71敗8分けの勝率.418の5位となり、辛くも最下位を免れた。監督代行の土橋が翌年から正式に監督として指揮を執ることになった。
1985年

明治大学の主砲広沢克己(後に広澤克実)を獲得。八重樫幸雄が捕手として球団初の3割打者、杉浦享も自己最多の34本塁打と活躍したが、チームはシーズン早々から首位戦線から1チームだけ脱落し、神宮で阪神に優勝を決められ、結局46勝74敗10分け勝率.383の最下位。10月9日に若松が2000本安打を達成。オフに優勝バッテリーの松岡と大矢が共に現役を引退した。同年、日本プロ野球選手会労働組合の資格を得たが、オーナーの松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。
1986年

マルカーノに代わり、大洋を自由契約になったレオン・リーが入団するが、この年もシーズン早々から首位戦線を脱落。2年続けて神宮で優勝を決められ、49勝77敗4分けの勝率.389と2年連続の最下位となり、土橋は辞任。
関根監督時代
1987年

関根潤三が監督、元阪神監督の安藤統男がヘッドコーチに就任。シーズン途中に入団した現役大リーガーボブ・ホーナーが「ホーナー旋風」を起こし、9年ぶりに広島戦に勝ち越し、チームは58勝64敗8分け勝率.475にて4位に浮上。


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