東京ヤクルトスワローズ
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この年は21世紀最初のペナントレースだったので、ヤクルトは「21世紀最初のセ・リーグ優勝・日本一球団」となった[24]。また、2006年から球団名が、東京ヤクルトスワローズに変更されるため、ヤクルトスワローズとしてのリーグ優勝・日本一はこの年で最後となった[25]
2002年

チームは2位を確保。ルーキー・石川雅規が12勝を挙げ新人王に、石井弘寿が69試合に登板し最優秀中継ぎ投手に選出された。また、前年に途中入団したケビン・ホッジスが最多勝を獲得した。黄金時代を支えた池山隆寛はこの年限りで引退。オフにペタジーニが巨人に移籍した。
2003年

シーズン前に西武を自由契約となっていた鈴木健を獲得。高津臣吾が佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新し、最優秀救援投手を獲得した。高津はオフに大リーグのシカゴ・ホワイトソックスに移籍。また、来日3年目のアレックス・ラミレスが本塁打王・打点王・最多安打と3つのタイトルを獲得し、ペタジーニの穴を埋める活躍を見せた。チームは中日・巨人・広島とのAクラス争いの末、巨人と同率の3位。
2004年

年間の総得失点差が?73点だったにもかかわらず、最終戦で巨人を抜き72勝64敗の2位でシーズンを終え、球団史上初の4年連続Aクラスを達成した。オフに稲葉篤紀が日本ハムへFA移籍。
2005年

4月24日、古田が捕手としては野村克也以来史上2人目、大学・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。シーズン結果は4位。シーズン終了後、若松は監督を退任。後任は古田が選手兼任監督として就任した。二軍はこの年から社会人大会に出場している(詳細)。オフにメジャーから日本への復帰を果たした石井一を2年契約により獲得し、広島の4番打者だったグレッグ・ラロッカも獲得するなど、積極補強に動いた。

この年までに入団した現役選手は石川雅規[注釈 20]青木宣親の2人。青木はMLBへの移籍を経て復帰したため、球団名に「東京」がつく前からの生え抜き選手は石川だけである。
東京ヤクルトスワローズ時代

2005年12月19日のプロ野球実行委員会で古田の悲願だった地元密着型として「東京ヤクルトスワローズ」への球団名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄時代以来となる「Tokyo」の文字が復活した。
古田監督時代.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキニュースに関連記事があります。

プロ野球実行委員会「東京ヤクルト」を承認


2006年

前年同様、リック・ガトームソンノーヒットノーランを達成するなどの活躍で交流戦2位になるが、交流戦終了後はほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果は3位となり、2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。11月4日には神宮球場において東京六大学選抜とヤクルトによるアマ・プロ交流試合が実施され、外国人選手とFA移籍を控えた岩村を除く一軍メンバーが出場。試合は3対2でヤクルトが勝利している。オフに岩村がタンパベイ・デビルレイズ(当時)へ移籍。ガトームソンがソフトバンク、ラロッカがオリックスへ移籍。
2007年

五十嵐亮太、石井弘寿の「#ロケットボーイズ」が手術の影響でシーズンを棒に振ったのを皮切りに、ディッキー・ゴンザレスアダム・リグス高津臣吾などの主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。最終的に青木宣親が首位打者アレックス・ラミレスが打点王・最多安打、セス・グライシンガーが最多勝投手になるが、シーズンはナゴヤドームでの開幕3連戦3連敗から1度も立ち直れず、143試合目で1986年以来21年ぶりの最下位を確定させてしまう。8月から東京のUHF東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)で2007年度初のテレビ中継が開始[注釈 21]。以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。9月、古田の現役引退・退団が発表された。なお、伊東昭光も辞意を表明したため、チーム最年長コーチの八重樫幸雄がヘッドコーチ代理を兼任していた。後任監督は高田繁、一軍投手コーチに荒木大輔がヤクルトに復帰した。一方、選手では打点王・最多安打のラミレスとこの年16勝を挙げたグライシンガーが巨人、石井一久がFAで西武に移籍。石井の人的補償として福地寿樹を獲得。年明けには藤井秀悟を交換要員とする3対3トレードを日本ハムと行い、押本健彦川島慶三らを獲得した。


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