東京ヤクルトスワローズ
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検討過程では「パンダ」「ベアーズ」「東京ヤクルト」「ファイアマン」などが挙がったが、「パンダース」は「売春宿の主人」を意味するスラングであることから早々に候補から外れ、一旦は「ヤクルト・ジャガース」(豹)に内定し、オールスター後から使用すると発表したが[15][16]、結局シーズン中の球団名変更は見送りとなった。その後の再検討の結果、球団名は「ジャガース」を撤回し、国鉄時代の「スワローズ」を復活させることになった[注釈 11]

また、このシーズン途中から現役大リーガーのジョー・ペピトーンが入団するも、大リーグ時代からの素行の悪さが改善されることはなく、無断欠場を繰り返した挙句、来シーズン開幕前に退団した。チームは62勝65敗3分けの勝率.488にて2年連続の4位に終わり、三原は監督を辞任。
ヤクルトスワローズ時代

前述の著作権問題の経緯と虫プロダクションが1973年11月5日付での倒産不可避となったことが重なり、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止した。1973年10月26日、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名を「ヤクルトスワローズ」に変更[13]。キャラクターも、ツバメをモチーフにしたものに変更。
荒川監督時代
1974年

打撃コーチの荒川博が監督に昇格、コーチで入団した広岡達朗沼澤康一郎小森光生と「早大カルテット」を形成した。松岡が17勝、浅野啓司も防御率2位と活躍し、チームは60勝63敗7分けの勝率.488にて13年ぶりのAクラスとなる3位。
1975年

日本ハムとの交換トレードで大杉勝男を獲得したが、結果は57勝64敗9分けの勝率.471の4位。オフに武上四郎が引退。
1976年

5月12日、荒川博監督が成績不振を理由にシーズン途中で休養し、広岡達朗が13日からヘッドコーチの監督代行となり、6月17日に監督就任[13]
広岡監督時代

※1976年の監督代行時代も含める。
1976年

結局、52勝68敗10分けの勝率.433の5位に終わり、国鉄時代の1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越しを記録し、セ・リーグワースト記録となる[注釈 12]。なお、全球団に負け越したにもかかわらず、最下位を免れたのは、日本プロ野球史上初めてのケースだった。
1977年

大杉がこの年多くの記録を立て[注釈 13]、9月14日の大洋戦では1イニング5本塁打の日本タイ記録を達成した[13]。若松が2度目の首位打者、入団2年目のチャーリー・マニエルが42本塁打を放つ。62勝58敗10分けの勝率.517により、チームは球団創設以来初の2位に躍進。
1978年

前年の2位躍進に気をよくしたフロントは選手に対し「ブラジルへの慰安旅行」を計画したが広岡監督はこれに反対し「旅行するぐらいなら温暖な海外でキャンプを」と希望。これを受けて2月、球団史上初めて日本国外キャンプとなるアメリカユマキャンプを行う[17]。広岡の参謀として巨人時代の同僚だった森昌彦がヘッドコーチで入団、キャンプでテストを受けたデーブ・ヒルトンも加わり打線は厚みを増した[18]。初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り、失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日のダブルヘッダー第2試合、さらに杉浦亨が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団相手に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日の対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝を決めた。これにより、セ・リーグ全球団がリーグ優勝をした。日本シリーズではそれまで3年連続日本一だった阪急ブレーブスを4勝3敗で下し、初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で大野豊に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。なお、広岡監督が正力松太郎賞に、若松がチーム初のセ・リーグ最優秀選手に選出された。
1979年

マニエルの近鉄への放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる[19]。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人ジョン・スコットがサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月にヘッドコーチの森が解任され、これに激怒した広岡が途中休養(指揮権放棄)して辞任。打撃コーチの佐藤孝夫が監督代行を務めた。結局、この年は48勝69敗13分けで8年ぶりの最下位。日本一の翌年に最下位に転落するのは、1961年の大洋以来18年ぶり2度目の不名誉。
武上監督時代
1980年

武上四郎が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで巨人・中日・阪神・大洋から15勝以上挙げるが、広島に大きく負け越し。結局、この年優勝した広島に大差をつけられての68勝52敗10分けの勝率.567、2位に終わった。松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得した。オフに福富邦夫が現役を引退した。
1981年


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