東京ヤクルトスワローズ
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(2023年12月期)[1]
総資産55億6133万6000円
(2023年12月期)[1]
決算期12月末
主要株主株式会社ヤクルト本社 80%
株式会社フジ・メディア・ホールディングス 20%
関係する人物松園直已松園尚巳相馬和夫
外部リンクhttps://www.yakult-swallows.co.jp
特記事項:旧商号・株式会社国鉄球団→株式会社サンケイアトムズ→株式会社アトムズ→株式会社ヤクルトアトムズ
1973年10月26日に現商号へ改称。
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東京ヤクルトスワローズ
YouTube
チャンネル

東京ヤクルトスワローズ

活動期間2015年2月1日 -
ジャンル野球
登録者数21.7万人
総再生回数7632万1210回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2022

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-10-25-00002023年10月25日時点。
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東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、英語: Tokyo Yakult Swallows)は、日本プロ野球球団セントラル・リーグに所属する。

東京都保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場専用球場(本拠地)としている。また、二軍イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場を使用している。

1950年のリーグ分裂時に日本国有鉄道にちなんで国鉄スワローズとして発足され、その後親会社が産経新聞社ヤクルトと変遷した。一時期はアトムズの呼称を使用していたが、のちに発足当初のスワローズに戻っている。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
球団の歴史
球団創立.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "東京ヤクルトスワローズ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年8月)

1949年(昭和24年)オフにリーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立のあおりを受け、各地の国鉄鉄道管理局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。同年の秋、当時の国鉄総裁加賀山之雄が「国鉄の新事態に即応して、身近なプロ球団を結成するということは、どんなものだろうか」という発言を行った。新事態とは国鉄がこの年に公共企業体として発足したことを指す。また、未曾有の人員整理下山三鷹松川といった事件(国鉄三大ミステリー事件)も相次いで起こっていた。この暗い雰囲気を払拭して職員の士気を昂め、明るい職場づくりのためにスポーツ、特に人気の高い野球に取り組もうとしたものである[2]。加賀山が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。

交通協力会理事長の今泉秀夫(後に球団の専務取締役に就任)の草案による国鉄プロ野球団の「設置の効用」は(1)国民大衆と国鉄の結びつきを緊密、かつ和やかなものにする(2)野球を通じて国鉄職員の一本化を増進し相互の密着感を強化する(3)健全な精神、身体を持つ職員を養成する(4)国鉄部内のノンプロ野球の発展を刺激する。[3]であった。

しかし、運輸業とその関連事業以外の副業を禁じた日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることはできず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会(現:公益財団法人交通協力会・株式会社交通新聞社)が主体となり、1950年(昭和25年)1月12日に財団法人鉄道弘済会日本通運、日本交通公社(現:公益財団法人日本交通公社・株式会社JTB)などの企業により株式会社国鉄球団[4](資料によっては国鉄野球株式会社となっている物もあり)[5] を設立。なお、交通協力会が発行する鉄道業界紙である「交通新聞」では、1950年(昭和25年)1月12日に交通協力会理事長の今泉秀夫がセントラル・リーグに加入申込みを行った[6]ものとされ、同じく交通協力会が発行する「交通年鑑」の「昭和25年交通年譜」では「5月18日 株式会社国鉄球団成立す[7]」とされている。球団名を国鉄スワローズ(こくてつスワローズ、Kokutetsu Swallows)とし(#球団名も参照のこと)、セントラル・リーグに加盟。初代監督には西垣徳雄が就任。

国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元逓信省総裁松前重義の尽力で、武蔵境の旧中島飛行機工場跡地に新しい野球場「武蔵野グリーンパーク野球場」が建設された(諸事情により1956年〈昭和31年〉閉鎖。7試合しか行われなかった)。

しかし、参入が他新球団より遅れていたため、選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人大学などのノンプロ・アマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は第二次世界大戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、松竹ロビンスの二軍監督・森谷良平と、かつて奉天満鉄倶楽部に在籍していた宇佐美一夫を追加補強してクリーンアップに据えたものの、その後も貧打に悩まされた。
国鉄時代
1950年[8]

3月10日の球団初公式戦の対大洋ホエールズ戦(下関)に2対1で敗れ、続く11日の対広島カープ戦に3対2で球団初勝利を挙げる。しかし、序盤の3月21日から14連敗、4月26日からも10連敗で最下位に沈む。

8月に享栄商金田正一が高校を中退して入団し、10月1日にプロ初勝利を挙げるとこの年8勝を挙げ、チームは終盤13連敗の広島に代わって7位となった。

この年、チームは42勝94敗2分で首位松竹ロビンスから57.5ゲーム、最下位広島と1.5ゲーム差の8球団中7位に終わる。オフに西日本パイレーツがセ・リーグを脱退したため、セ・リーグは7球団となる。
1951年[8]

開幕から4月にかけて12勝4敗で首位に立つが、5月に入り6連敗で2位に落ちると、6月には3勝10敗として、前半戦終了時には6位となっていた。8月に入り、金田正一がこの月6勝を挙げ、チームは11勝10敗で勝ち越し5位に浮上し、そのままシーズンを終える。金田は、22勝を挙げ、最多奪三振を獲得[注釈 1]するとともに、9月5日に球団初となるノーヒットノーランを達成[注釈 2]土屋五郎が球団初のタイトルとなる最多盗塁を獲得[8]
1952年[8]

この年より地域フランチャイズ制が導入され、国鉄は読売ジャイアンツ毎日オリオンズ大映スターズ東急フライヤーズと共に後楽園球場を本拠地とした。開幕から2勝2敗とした後は4連敗、4月に入り4連敗と6連敗、5月に10連敗と連敗を重ねたが、松竹と広島が低迷したことで5位でシーズンを終了。この年120試合制となり、初の50勝到達となったが、このうち半分近い24勝は金田正一で、二年連続奪三振王となった。佐藤孝夫が球団初の新人王を獲得。
1953年

松竹と大洋が合併したことで、この年からセ・リーグは現在の6球団制に移行。国鉄は45勝79敗1分に終わり、首位巨人から42ゲーム差、5位大洋松竹と4.5ゲーム差で球団初の最下位となる。西垣徳雄が監督を退任、後任は藤田宗一
1954年

読売ジャイアンツから移籍した宇野光雄の活躍で同年の対巨人戦8連勝。宇野と箱田弘志が球団初のベストナインを獲得する。首位中日から32ゲーム差、55勝73敗2分の5位に終わる。
1955年

10月19日、金田正一がシーズン350奪三振を記録、NPB新記録[注釈 3] となると共に大リーグボブ・フェラー348を抜く世界新記録[8]町田行彦本塁打王を獲得。57勝71敗2分で、首位巨人と34.5ゲーム、4位広島と1ゲーム差の5位に終わり、藤田が監督退任、後任は宇野光雄。
1956年

対巨人戦で11勝(13敗)と互角の試合を見せる。大脇照夫が5月3日の対中日戦(中日)でノーヒットノーラン、宮地惟友が対広島(金沢兼六)で球団初、日本プロ野球3人目となる完全試合を達成している[8]。チームは首位巨人と21ゲーム差、61勝65敗で4位に終わる。オフに南海ホークスから飯田徳治を金銭トレードで獲得。
1957年

金田正一は7月15日の対中日戦(中日)で2000奪三振を記録。8月21日の対中日戦(中日)でプロ野球4人目の完全試合を達成し、この年は最多勝利最優秀防御率を獲得、沢村賞と自身初のベストナインに選ばれている。佐藤孝夫が22本塁打で本塁打王となる。チームは58勝68敗4分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。
1958年

開幕戦の対巨人戦(後楽園)、金田正一が巨人のルーキー長嶋茂雄を4打席連続三振に抑えるなど、4対1で勝利する。翌4月6日のダブルヘッダーでも4対2、4対3と勝利し、開幕3連勝とする[9]。5月24日の対阪神戦(甲子園)で飯田徳治がアキレス腱切断、日本プロ野球記録の連続試合出場記録が1246で止まる[8]。6月6日、金田が球団初の通算200勝を達成[注釈 4]


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