東京メトロ有楽町線
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このため、運輸省(当時)と協議を行い、小竹向原 - 池袋間は工事方法の変更扱いとした複々線区間とし、和光市 - 成増間は第15号答申に基づいて路線免許を申請することとした[22][21]。建設予算は1975年度より第8号線・第13号線の区別なく、有楽町線和光市 - 明石町(後に新木場)間に含まれることになった[22][21]

第13号線の制定に伴い、営団地下鉄は西武鉄道ならびに東武鉄道と協議を行い、1975年(昭和50年)8月に第8号線と第13号線との相互直通運転に関する以下に示す覚書を取り交わした[15]

第13号線和光市 - 池袋(→新線池袋→副都心線池袋)間と第8号線(有楽町線)小竹向原 - 池袋間、西武有楽町線練馬 - 小竹向原間は同時開業を前提とする[23][15]

小竹向原駅は第8号線と第13号線の列車が相互に乗り入れることが可能な配線とする[19][15]

運行形態は、都市交通審議会第15号答申を基本とする[19][15]

第13号線は東武東上線 - 和光市 - 池袋(→新線池袋→副都心線池袋)間、第8号線は西武池袋線 - 練馬 - 小竹向原 - 有楽町線新富町方面としながら、第13号線から第8号線(有楽町線)方面へはラッシュ時において1時間あたり6本程度乗り入れすることを想定する[19]。将来的は第13号線・第8号線間でダイヤに支障しない範囲で交互に直通運転を行う[19][15]

これは営団地下鉄が成増 - 小竹向原間は第8号線として建設工事に着手し、周辺住民へ「銀座へ直通できる」と宣伝して協力を得ていたことから、和光市方面から有楽町線方面へ行ける列車を設定する必要があったためである[15]。しかし、用地買収や周辺住民への建設同意の問題などから建設工事は大幅に遅れ、小竹向原 - 池袋間の第13号線施設の使用は当面見送られた[23]

また、営団地下鉄は東武東上線志木 - 和光市間の複々線化計画に合わせ、和光市駅を介して東武東上線と第13号線が相互直通運転を行うことを決定し、和光市 - 営団成増間を営業線として建設するため、同区間の地方鉄道敷設免許を申請することに変更した[15]。和光市 - 営団成増間は1978年(昭和53年)9月に着工し[24]、この時点で和光市 - 池袋間は1981年(昭和56年)9月の開業を予定したが[24]、和光市駅付近の用地買収が遅れたことから1987年(昭和62年)秋まで開業が遅れた[24]

都市交通審議会答申第15号からすれば、和光市 - 池袋間は第8号線(有楽町線)とは別路線の「第13号線」(現在の副都心線)であるが、この区間は有楽町線池袋 - 新富町間と一体で運行されることや乗客の混乱を起こさないためにも、和光市 - 池袋間も「有楽町線」と呼称することとなった[25]

このうち和光市駅 - 小竹向原駅間が有楽町線として、志木駅 - 和光市駅間が東武東上線の複々線としてそれぞれ開業した。なお、第13号線の小竹向原駅 - 池袋駅(→新線池袋駅)間は有楽町線新線(現・副都心線)として1994年12月に開業している。

小竹向原駅は西武有楽町線との分岐点となることから2面4線構造として、池袋方には和光市方面からの第13号線列車と、練馬方面からの第8号線列車が双方に乗り入れができるよう、10両編成+αの長さを持つ6線区間を設置した[26]

小竹向原 - 池袋間は、第8号線と第13号線のトンネルを上下に重ねた一体構造となっている[26]。これは第8号線開業後に改めて第13号線トンネルを構築することは困難であり、上下構造のトンネルを構築することは経済的であること、また第8号線と第13号線のトンネルを並行させることは地上の道路幅の制約から困難であり、用地を節約できる上下トンネル構造を採用した[26]。千川駅と要町駅では、地下2階は第8号線(有楽町線)のホーム、地下3階は第13号線(副都心線)のホームとなっており[26]、1983年(昭和58年)の有楽町線開業時点では地下2階部のみ使用を開始した。

第8号線成増 - 池袋間のうち、川越街道国道254号)の地下を通る区間(地下鉄成増 - 地下鉄赤塚付近)を除いた区間は、東京都の放射第35号道路[注 4]放射第36号道路[注 5]および補助線街路第78号線(補助第78号線)[注 6]の計画道路と競合しており、特に放射第36号道路は周辺住民から大きな反対運動があり、当初から用地交渉の難航が予想されていた[22]。川越街道(国道254号線)の地下を通る区間は1972年(昭和47年)2月に建設工事に着手され、1975年(昭和50年)3月に完成していたが、前後の区間の開業が大幅に遅れたため、施設は8年間にわたって未共用の状態となっていた[18]。ただし、オイルショックによるインフレ発生前に完成したため、結果的に建設費用を抑えることができた[18]

平和台 - 池袋間では東京都の街路事業(都市計画道路)と地下鉄の建設を同時に施工する予定であった[27]。しかし、現道がなく新たに道路を整備する氷川台 - 千川間では、周辺住民から排気ガス騒音を懸念して計画道路への反対が根強く、道路計画に地下鉄建設も巻き込まれて用地交渉は難航した[27]。ただし、地下鉄建設には賛成の住民が多かった[27]。最終的にはオイルショックの影響によって東京都の財政が急激に悪化し、道路整備は困難となったことから、営団地下鉄は1975年(昭和50年)9月に地下鉄を先行して建設し、東京都の計画道路は地下鉄建設後に改めて整備することに変更した[27]
当線について

建設目的の一つには、車体規格が小さく編成長も短いことから輸送力増強に限界のある丸ノ内線の混雑緩和があった[4]。池袋駅の乗り換えが便利であったため、日比谷線に対する千代田線同様、混雑の緩和に大きく寄与した。

また、1974年(昭和49年)の銀座一丁目 - 池袋間の開業にあたり、丸ノ内線中野坂上駅、日比谷線恵比寿駅に次いで、池袋駅に4基、銀座一丁目駅に2基の自動改札機が設置された。これは、当該区間では他線との改札内連絡がなかったため、集改札自動化の実証実験線区として好適であったためである。両端駅である池袋駅、銀座一丁目駅以外には自動改札機は設置されなかったが、有楽町線の全駅で磁気化券が発売されており、普通乗車券による出場にも対応していた。しかし、当時は他の路線での乗車券の磁気化が進んでおらず、効率的な運用ができなかったことから、営団成増(現・地下鉄成増)延伸時に一旦撤去され、当時の試みは失敗に終わっている[28]。その他、大手町駅で採用された案内サインシステムを全面的に採用した。


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