東京スポーツにおいてプロレス記事が多い理由は、夕刊紙であるが故に、野球などの記事での試合速報は他社と勝負にならない[注 3][注 7]ことと、プロレスは八百長疑惑もあり、デイリー以外の朝刊スポーツ紙が扱わなかったためであった。その後「紫色のにくい奴」[注 8]「リングを染める鮮血の赤から、王者の風格のパープルへ」をキャッチフレーズに、青紫の見出しの紙面に刷新。詳細は「プロレス#マスコミにおける取り扱い」を参照
1986年、元横綱の輪島大士が全日プロ入りすると同時に、東スポが印刷を委託していた日刊スポーツも「バトル面」を設け、プロレス報道に新規参入。東スポの優位性は低下した[注 9]。 「日刊スポーツ#バトル面」も参照
1988年、全日本プロレスや新日本プロレスがゴールデンタイムの中継から撤退するなどしてプロレスがマイナー化すると、芸能ゴシップなどが1面に掲載されることが多くなる。詳細は「全日本プロレス中継#ローカル枠・プライムタイムへの移行、そして深夜枠へ」および「ワールドプロレスリング#ゴールデン撤退、夕方・深夜枠へ」を参照
全女の経営が傾きかけた1995年(平成7年)以降、プロレス大賞に女子の部が設けられるなど、東スポの女子プロレスに対する扱いも変化してきている。しかし、2000年代には女子プロレスという種目そのものの衰退に伴い、最高賞である「女子プロレス大賞」が5年連続で該当者なしとなる等問題も抱えている。詳細は「女子プロレス#歴史」を参照 競馬に関しては、1970年代から80年代に本紙の特別版としてレースポ
競馬トウスポ
また、放送系メディアで行われる競馬中継にも古くから解説者を派遣する。テレビ東京・BSテレ東『土曜競馬中継』→『ウイニング競馬』では1980年代から、ラジオ日本『土曜競馬実況中継』は2020年9月12日から、東スポ・大スポの競馬担当記者がレギュラー出演。他にラジオNIKKEI『中央競馬実況中継』にも不定期に記者を出演させている。
2024年4月6日付(4月5日夕刊)から、土・日曜付け(金・土曜発売の夕刊。及び祝日が含まれた3日間開催実施日の月曜付け・日曜夕刊)[5]の中央競馬枠順確定版に限り、1部売りを250円に改定し、これに伴い、専門誌並みの36レース全レース馬柱や、週の中間の調教データ、出走馬関係者インタビューなどを網羅した内容に一新された。
なお出馬表は同じくS・Tビルに本社を置くスポニチと同一の構成で、東日印刷が制作する。 1991年4月、ビートたけしが客員編集長に就いてからは、浅草キッドから「日付以外は全て誤報[6]」[注 10]と言われるほど娯楽性を重視しており、「“ガセ”」「飛ばしの東スポ」という異名も持つ。TBSテレビの番組『アッコにおまかせ!』では「“エキサイト新聞”東スポ」と称される。しかし、2000年代に日本人アスリートの海外進出が本格化するにあたり、時差の関係上日本のスポーツ紙の中で最も早く国外スポーツの試合結果を伝えられるケースが多いという特性を生かし、野球のメジャーリーグ・ゴルフのPGAツアー・欧州各国のサッカーリーグなど欧米のスポーツに関する記事に力を入れるようになっており、娯楽性の強いゴシップ記事は減少傾向にある。 「プレスリー生きていた?[注 11]」「マドンナ痔だった?[注 12]」「落合家チンポ丸出し放送[注 13]」「人面魚重体脱す[注 14]」「フセイン米軍にインキン大作戦[注 15]」「ダイアナ大胆乳[注 16]」「ネッシー出産[注 17]」「プロレス初 小橋ゲーセン突入特訓[注 18][注 19]」「象じゃない ネッシー怒る[注 20]」「地球の電気を泥棒か 電線に止まったUFO[注 21]」「ツチノコ発見[注 22]」「SMAP解散か[注 23]」「前田敦子ヌード写真集[注 24]」「衝撃妖精写真初公開 15センチおじさん[注 25]」「今井絵理子議員ノーパン疑惑[注 26]」など、1面の奇抜な見出しが特徴である。これらの見出しの下には小さく「?」「か」「も」「説」「絶叫」などの語句・記号が書かれ濁されていることが多いが、そうした見出しに関しては、売店や新聞スタンドに陳列されている状態や折りたたんである状態では見えないよう、紙面のレイアウトが計算されている。海外宇宙人やクリエ―チャーの記事のほとんどはウィークリー・ワールド・ニューズからの流用であった。 なお、九州スポーツは朝刊であるため、みなと山口合同新聞社に編集委託をしたときはホークスなどのプロ野球を中心とした一般スポーツニュースを1面に持ってくることが多かったが、大阪スポーツ(高速オフセット堺工場)への委託以後は、他の各地域版と同じように、飛ばし記事を載せる傾向が増えている。
飛ばしの東スポ
飛ばしの実例
1969年(昭和44年)1月、グレート東郷の日本再進出に際しNETテレビ(現:テレビ朝日)が東郷が設立する予定のプロレス新団体の放送を計画していたが、日本プロ・レス興業(日プロ)社長永田貞雄が計画を阻止する為、東スポに飛ばし記事の掲載を依頼した。その後東スポは「ルー・テーズが極秘来日」(実際には1969年は一度も来日せず)などの飛ばし記事を掲載し東郷の計画を妨害した結果、同年7月に日本プロレスの中継番組である『NETワールドプロレスリング』の放送をする事となった[27]。