本拠地を失ったロッテは翌1973年から1977年まで、宮城県仙台市の宮城球場[注 2]を暫定本拠地とし、1978年から川崎球場に落ち着くまでの間、首都圏(後楽園、神宮、川崎)や静岡(草薙)などを転々としながら主催試合を開催していた。なおこの間、1974年にはリーグ優勝し、日本シリーズも制して日本一にも輝いている(この間のロッテについてはジプシー・ロッテを参照)。
主を失った東京スタジアムが閉鎖された後、1973年6月1日には法人格としての株式会社東京スタジアムも解散した。同年末に竹中工務店が土地および施設を取得。1974年頃には竹中工務店社内の野球大会に使われた一方でパ・リーグ各球団オーナー連名による使用要請の嘆願を受け入れず[1]、一部ではロッテが再度東京スタジアムを使用する噂が立っていたものの頓挫[2]。その後1977年3月に東京都が跡地を取得し、4月からスタンドは解体された。跡地は大半が荒川区の管理する「荒川総合スポーツセンター」となっており、体育館や軟式野球場などがある。一部は移転した警視庁南千住警察署と都民住宅の敷地となっている。本球場の解体後、23区東部地域(隅田川より東)に1万人以上の収容能力のあるスタジアム(野球場・陸上競技場・球技場)は2024年現在まで存在していない。 東京スタジアムの設計のモデルとなったのは、かつてアメリカのサンフランシスコに存在しサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地だったキャンドルスティック・パーク[注 3]やシカゴに存在しシカゴ・ホワイトソックスの本拠地だったコミスキー・パーク[1]で、場内に設けられた6基の照明塔は当時日本では一般的だった送電塔のような無骨な鉄骨作りではなく、2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるという当時としてはモダンな構造だった。 二層式の内野スタンドに設置された強化プラスチック製の座席は、エリア別に青(外野席と一・三塁側内野自由席)、黄(一・三塁側内野指定席B)、赤(年間指定席を含む内野指定席A)に色分けされ、シートピッチが広く取られていたため「ゆったり座れる」と評判だった。1階スタンドと2階スタンドの間には、日本の野球場では初のゴンドラ席が67席(うち貴賓席1、ゲストルーム4)設けられた。 スコアボードには本塁打が出ると「HomeRun」と書かれた電光看板が点灯する演出もあった。また、スコアボードに設置された大時計は当時としては画期的なデジタル表示式であった。フィールドは外野だけでなく内野のインフィールド部分にも天然芝が敷設され、ファウルエリアは球場敷地が狭隘なためやや狭く、内野フェンスも低かったが、「選手がすぐそばに見える」と観客には好評だった。なお、天然芝については有藤通世が「あまり手入れしてないみたいで、芝が長かったり短かったり不揃いで、守りにくかった」といったことを証言している[3]。 エントランス部にはこちらもキャンドルスティック・パークでも使用されていたスロープ式の通路を採用し、観客を地平部からスタンド下の通路に直接誘導する手法が用いられた[3]。これは観客と選手、関係者の動線を分離してスムーズな入退場が行えるよう配慮して設計されたものだが、現代で言うところのバリアフリーにも通ずる概念であると評価する向きも多い[注 4]。 開場前の1962年5月23日、夕方から雨中で行われた照明設備の点灯テストで、当時としては高照度の1600lxの灯に照らされたスタジアムを見て、永田オーナーは記者陣を前に「どうだ。これだったら後楽園球場もビックリだろ」と高らかに笑って見せたという。永田は当時セ・リーグ、とりわけ巨人に対して強烈なライバル意識を持っていた。その一端を示す事柄として、他のセ・リーグの首都圏球団である国鉄(後にサンケイ、ヤクルト)や大洋には東京スタジアムでの主催試合開催を許可したものの、最も収益が期待できるはずの巨人にだけは、基本的に最後までスタジアムの貸出を拒否し続けたということが挙げられる[注 5]。 スタンド下には選手用の設備が充実していた。内野スタンド下に設けられた幅約6mで2人が同時に投球できる屋内ブルペン[注 6]をはじめ、ダッグアウト裏にもトレーナー室や医療室など諸室が整っていた。最も好評だったのはロッカールームで、当時オリオンズに在籍していた醍醐猛夫は「それまで(後楽園など)は隣の選手と身体をぶつけながら着替えていたが、東京球場ではのんびり椅子に腰掛けることもでき、隣席のジョージ・アルトマンと小遣いを出し合って冷蔵庫を置いて、試合後に火照った身体を癒すビールやコーラがおいしかった」と振り返っている[4]。
光の球場