東亜国内航空
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歴史(東亜国内航空・日本エアシステム時代)
東亜国内航空TDAのロゴマーク

東亜国内航空株式会社(Toa Domestic Airlines/TDA)は、東京羽田空港を拠点に幹線と準幹線・ローカル線を運航していた日本国内航空(JDA)と広島に本社を置き大阪伊丹空港を拠点にローカル線を中心に運航していた東亜航空(TAW)の2つの航空会社が合併し、1971年5月15日に発足した(存続会社は日本国内航空)。詳細は「日本国内航空」を参照

東亜国内航空のシンボルマーク「ブラストフラワー」は、デザイナーの亀倉雄策が「大空を飛ぶ」イメージからデザインした。日本エアシステムに商号変更した際には廃止こそされなかったが、徐々に虹のロゴマークが中心になり使用されなくなった。ただし台車などの業務用器材には、2023年時点でもなお存在が確認されている[3]

発足直後の1971年7月3日に「ばんだい」号墜落事故が発生するなど前途多難な歩み出しであり、さらに1972年7月1日には運輸省からいわゆる「航空憲法」と呼ばれる45/47体制が示達されたことで、東亜国内航空には一部の幹線を除き採算の取りにくい国内ローカル線のみが割り当てられることとなり、厳しい経営を強いられた。

しかし、1972年に東京/羽田 - 大分線にボーイング727-100を投入して以降、DC-9やエアバスA300を日本で初めて導入するなど、保有機材のジェット化、大型化を行った。地方の人々の足として地方空港のジェット化にも寄与した(詳細は後述を参照)。
商号変更日本エアシステムの初代本社(1990年 - 1998年)- 虎ノ門37森ビル日本エアシステムの二代目本社 - 羽田M1ビル・新整備場(1998年 - 2006年)JAS旧整備場 - 羽田最古といわれた後の国有T101格納庫

1985年45/47体制が廃止されることになり、東亜国内航空も国際線や国内幹線への就航が可能になった。なお、国内幹線に関しては、便数は希少ながら1975年以降、段階的に東京/羽田 - 札幌/新千歳大阪/伊丹福岡の3幹線の定期運航に参入していたが、本格的な参入はこれ以降である。

1986年にはこれを受けて国際チャーター便の運航を開始したものの、その後韓国や中国への国際線定期便を運航する際に、商号の「東亜」という単語が太平洋戦争時に使用した「大東亜共栄圏」・「大東亜戦争」をイメージさせるとして、また国際定期便を運航するにあたり「国内」という名称がそぐわなくなることから、東京/成田 - ソウル/金浦線就航に先立つ1988年4月1日に株式会社日本エアシステムへと商号を変更した[4]

なお、「Japan Air System」の英語商号表記の略称「JAS」の読みは当初は「ジェイ・エイ・エス」だった。これは、日本農林規格との混用を避ける意味であえてそう読んでいたと推測される。しかし1990年代後半頃からは「ジャス」に変更されている。中国語商号表記は「日本佳速航空」で、「佳速」は「ジャス」の当て字である。この「佳速」から発展してコーポレートスローガン「GOOD SPEED ALWAYS」が生まれた。
日本航空(JAL)との経営統合の経緯統合後の二代目本社 - 羽田空港JALメンテナンスセンター

日本の航空需要を踏まえ、運輸省は、日本航空全日本空輸の2社体制で日本の航空旅客輸送を担わせる意向であった。大手3社体制では、過剰供給になると見ていたためである。安全運航の維持には、航空会社同士の過当な競争や、それに伴う各社の疲弊は回避したかったとされる。

しかし、海外展開を目論み、航空業界への参入を悲願とする東京急行電鉄社長の五島昇は、日本国内航空を傘下に収め、運輸省の方針に反し、東亜航空を合併する形で1971年5月15日、国内第3位の航空会社、東亜国内航空を発足させた。東急側の政界工作もあり、運輸省は方針を変更せざるを得ず、渋々と東亜国内航空の存続を認めたこともあり、同社は日本航空と全日本空輸を守りたい運輸省からは冷遇され、長年に渡る厳しい経営を強いられることになる。

五島は、かつて伊豆急行の再建に敏腕を振るった東急の田中勇副社長を東亜国内航空の社長に送り込んだ。田中自身、東急の航空業界への進出自体、「ボンボン(五島)の道楽」と憚らずに放言し、反対であった。社長就任の打診も「あんな貧乏会社で社長なんてやるつもりはない」と固辞し続けていたが、五島の意を受けて、彼が越後交通社長時代に知己であった田中角栄や、東急の大株主であった小佐野賢治に説き伏せられ、渋々と東亜国内航空に赴任した経緯があった。田中は五島の期待に応えて、東亜国内航空の業績は一時期、安定した。

しかし、五島の死や田中の退任、バブル経済の崩壊などが重なり、親会社の東急や東亜国内航空から社名を変更した日本エアシステムも、経営状態が悪化し、東急にとっては大きな負担となっていた。日本エアシステムは、日本航空や全日本空輸に対抗するため、大手2社にはない独創的なサービスを展開し、経営努力を続けていたが、運輸省から採算の取れない地方ローカル線が割り当てられ、それらを多く抱えていたことに加え、幹線や国際線においても路線や空港発着枠が思うように配分されず、常に不利な状況で経営しなければならなかった。東急はグループ戦略を見直し、不採算事業のリストラを加速。事業の縮小と投資の絞り込みを図る中で、日本エアシステムの身売り先が模索されることになった。

最初は東京三菱銀行を通じて全日本空輸に買収を打診されたが、同社は買収を拒否。その後、運輸省から日本航空に買収を打診されたが、同社も難色を示したため交渉は難航した。しかし下記の様に日本航空との経営統合が決まった。

2001年11月12日 - 日本航空株式会社(2004年4月1日から2011年3月31日までの商号は株式会社日本航空インターナショナル)と株式会社日本エアシステムとの持株会社方式での経営統合が発表される。

2002年10月2日 - 日本航空と日本エアシステムの経営が統合され、両社による共同持株会社、株式会社日本航空システム(JALS)が発足。旅客数において世界第6位、営業収入において世界第3位のメガキャリアが誕生した。

2003年4月1日 - 日本航空と日本エアシステムの両社が運航していた国内線が、原則どちらか一方のみの運航に統一された。ただし東京/羽田 - 札幌/新千歳・大阪/伊丹・福岡線などの幹線では時刻調整の上、併存させた。

2004年4月 - 6月 - 日本航空便と日本エアシステム便がすべて、日本航空便(JLXXXX便)に統合された。これを反映した商号変更(日本航空株式会社→株式会社日本航空インターナショナル、株式会社日本エアシステム→株式会社日本航空ジャパン、株式会社日本航空システム→株式会社日本航空)が行われ、国際線と国内線の整理のもと、日本エアシステムの便名コード「JD」ならびに日本エアシステム(JAS)のブランドが終了した。ICAO3レターコードはJLJ、コールサインもJ-BIRDに変更となった。貨物事業は国際・国内とも株式会社日本航空インターナショナルに全面移管された。

2006年10月1日 - 株式会社日本航空インターナショナル(旧:日本航空株式会社)が株式会社日本航空ジャパン(旧:株式会社日本エアシステム)と吸収合併し、名実ともに両社による経営統合が完了した。

運航機材
東亜国内航空から日本エアシステムまでYS-11

日本国内航空・東亜航空時代はそれぞれが多種多様な機材を揃えていたが、両社とも末期には保有機の統一化が進み、1971年の東亜国内航空発足時は旧東亜航空から移管した若干数のデ・ハビランドDH.114・タウロンを除き、保有機の大半がYS-11となり、この後1年は2機種のみでの運航となった。

東亜国内航空初のジェット機運航は、日本国内航空時代に日本航空にリースしていたボーイング727の返却を受け、1972年8月に羽田 - 大分線に投入した時だった[5]。しかし、同社のその後のジェット化推進に際しては、旅客定員がほぼ同数で経済性の高いダグラスDC-9が選定されたため、同社ジェット化の先陣を果たしながらも、ボーイング727の運航は、わずか1年半余りの短命に終わった。

日本国内航空時代に日本航空にリースしていたボーイング727は2機だが、同じくリースしていたコンベア880が訓練中の事故で喪失したため、その補償としてリース返却時に日本航空からボーイング727が1機譲渡されている。ハイジャック事件で知られた「よど号」 (JA8315) も日本国内航空からのリース機のうちの1機で(日本国内航空時代の愛称は「羽衣号」)、返却後は「たかちほ」の名で運航された。
DC-9DC-9 Super 80MD-81MD-87

その後は徐々にダグラスDC-9シリーズの保有を増やすとともに、機材の大型化を図りエアバスA300の導入を進めたほか、1980年代以降は日本エアコミューターへのローカル線運航の移譲を進め、YS-11も日本エアコミューターなどの子会社へ移籍していった。
A300B4-2CDC-10-30

商号変更に伴い国際線進出をねらった日本エアシステムは国際線運用機材としてDC-10-30を発注するが、すでにメーカーが製造ライン閉鎖を決定していた(後継機MD-11製造開始のため)。


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