『日本紀略』は醍醐天皇の延長7年(929年)12月に東丹の使節が丹後国竹野郡大津浜(現在の京都府京丹後市)に来着したことを伝える。この派遣は、東丹が遼陽城に移った後の時期に当たることから、遷都後も日本海沿岸に東丹の支配が及んでいたことがわかる。使者はこれまで二度も渤海国使として来日したことのある裴?
(はいきゅう[4])であった。親交のあった藤原雅量が存問使として派遣された[4]。何故国名が変わったのかを問われた裴?は渤海が契丹に征服されたことを知らせ、新王の非道ぶりを訴えた。これを聞きとがめた京都の朝廷は主君を変えたばかりか、新主の悪口を言うとは不届きであるとして入京させず、追い返している。この史実によれば、東丹は渤海の後継者として日本との通交を維持する意向であったことがわかる。朝廷にその意志は無かったが、雅量は裴?に同情し、後に回想した漢詩を『扶桑集』に残している[4]。