東ローマ帝国はギリシャを取り戻すべく、またスラヴ人の捕虜を得るべく幾度かスクラヴィニアに遠征を行い、ギリシャを再征服していった。ニケフォロス1世治下ではテマ・マケドニア、テマ・ヘラス、テマ・テッサロニキ、テマ・ペロポネソスが設置されており、ギリシャ人の再移住とスラヴ人のギリシャ化が進んだ。土地の再開発も進み、トラキアやテッサリアの平原では小麦が生産され、テーバイでは織物の工場が建てられ、それら生産物が税としてコンスタンティノープルに納められるようになった。だが、東ローマ帝国の支配は、アテネの主教が「一体あなた方に何の不足があるのか。テーバイの絹織物ではあるまい、テッサリアやマケドニアでとれた小麦でもあるまい。それはみな我々が作ったものだ。だが、すべての物はコンスタンティノープルに流れて行ってしまう。」と嘆くほどの重税による圧政に苦しめられた。そのため884年にコルフ島がノルマン人に占領された時や後の十字軍の侵入時、現地の市民は侵入者たちをコンスタンティノープルの中央政府からの圧政からの解放者として歓迎した。
ブルガリア帝国の侵入1025年、皇帝バシレイオス2世没時の東ローマ帝国
10世紀、シメオン1世の下で強大になったブルガリア帝国はコンスタンティノープルを攻撃する一方で、ギリシャへも攻撃を加えており一時はペロポネソス北端までブルガリア軍の制圧下に入った。927年にシメオンが死亡するとブルガリア帝国は勢力が衰退したため、ギリシャは東ローマ帝国の支配下となったが、997年に即位したサムイルによってギリシャは再び東ローマ帝国とブルガリア帝国の戦場となり、ギリシャは大きな被害を受けた。だが、1018年バシレイオス2世によってブルガリア帝国が滅ぼされたため、ギリシャは再び東ローマ帝国の支配下となった。 南イタリアを征服したノルマン人、ロベルト・イル・グイスカルドは東ローマ征服をもくろみ、バルカン半島に侵入した。この遠征は東ローマの抵抗とロベルトの病死によって中止されたが、この後もノルマン人は1148年、1185年にギリシャに侵攻した。特に1185年ではテッサロニキが陥落し、市民は虐殺されるなど大きな被害を受けた。 1204年、第四回十字軍によって東ローマ帝国が滅亡。ギリシャにもアテネ公国、アカイア公国などの十字軍国家と東ローマ貴族の亡命政権である、エピロス専制侯国が樹立された。1261年にニカイア帝国がコンスタンティノープルを占領し、新たな東ローマ帝国となったが、かつての国力は失われていたのと、ギリシャに樹立された国々も東ローマ帝国に敵対したため、東ローマ帝国がギリシャを完全に支配することはできなかった。1453年、東ローマ帝国はオスマン帝国に滅ぼされ(コンスタンティノープルの陥落)、ギリシャもオスマン帝国の支配下になった。
ノルマン人の侵入
十字軍国家の樹立
参考文献
ギリシア史 (新版 世界各国史) 桜井 万里子 (編集)
関連項目
東ローマ帝国
ローマ帝国支配下のギリシャ
トルコクラティア