東プロイセン
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騎士団は征服し、教皇の名の下でプロイセンを統治し布教した。プルーセン人はカトリックに改宗し、ドイツ騎士団国となった。ドイツ人東方植民によりドイツ系住民が増大した。ドイツ人人口が大多数となり、何世紀かの間にプルーセン人はドイツ化し、少数民族にはポーランド人とリトアニア人がいた。プレーゲル川の河口の港町ケーニヒスベルクハンザ同盟都市)は、琥珀など流域の物資を集散しバルト海を通じて交易するこの地域の中心都市として繁栄していた。

ドイツ騎士団マリーエンブルクマリーエンブルク城を建て本拠地とし構えた。農民やスラブ人達はしばしばドイツ騎士団の支配に対して反乱を起こした。

1525年、ドイツ騎士修道会総長でホーエンツォレルン家アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクプロテスタントに改宗し、世俗の「プロイセン公」となってドイツ騎士団国の東プロイセンにプロイセン公国を創設した。
王領プロイセン

1410年グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)とこれに続く15世紀前半の戦争を経てドイツ騎士団国家は弱体化した。1440年には都市、諸侯、(ドイツ騎士団に属さない)僧侶がドイツ騎士団に反発してプロイセン連合を結成しポーランド王国と同盟した。1466年の和睦(第二次トルンの和約)でドイツ騎士団は西プロイセンをポーランドに譲り、東プロイセンはポーランド国王の宗主権下に入って王領プロイセン1466年 - 1772年)となった。プロイセン連合加盟の諸都市や諸侯の自治権が勝利者のポーランド王国によって保障された。

1558年イヴァン4世リヴォニア戦争を起こす。1561年テッラ・マリアナが分割され、プロイセン公国の影響下から離脱。1618年にプロイセン公の後継者が絶えると、ブランデンブルクを領地とする同族のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムント(在位1608-1619)がプロイセン公を兼ねる同君連合体制となり、ポーランド国王の宗主権下に東プロイセンを統治した。この頃からスウェーデンバルト海に勢力を伸張し、東プロイセンにも影響を与え、1626年には、スウェーデン王グスタフ2世アドルフによって一時制圧された。
プロイセン王国

1660年には、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が東プロイセンをポーランド国王の宗主権から解放し、1680年までにスウェーデンの影響力を完全に排除した。そして1701年、大選帝侯の子ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクに赴き、フリードリヒ1世としてプロイセン王に即位、プロイセン公国は「プロイセン王国」となった。ホーエンツォレルン家の主な領土はベルリンを中心としたブランデンブルク選帝侯領であったが、飛び地の東プロイセンは名目上神聖ローマ帝国の範囲外であり、ここでなら皇帝の臣下である選帝侯フリードリヒ3世も王となることができたのである。

1701年にプロイセン王国がマズルィ(ポーランド語版)を併合。北方大戦争におけるペストの発生(英語版)(1709年 - 1711年)で人口の1/3が死亡した。1727年ザルツブルク大司教フィルミアン男爵レーオポルト・アントン・エロイテリウス(英語版)(在位:1727年 - 1744年)が凄惨な新教徒迫害(de:Salzburger Exulanten)を実施し、追放された新教徒を東プロイセンが受け入れた。1772年プロイセン王フリードリヒ2世(大王)はポーランド分割において、西プロイセンを併呑してブランデンブルクと東プロイセンが地続きとなり飛び地を解消すると、翌年東プロイセン州(1773年 ? 1829年)と西プロイセン州に変更した。また、カトリック人口の多い王領プロイセンの属領ヴァルミアがプロイセン王国に併合された。

1806年ナポレオンは、第三次対仏大同盟に勝利してオーストリア帝国プレスブルクの和約を締結し、神聖ローマ帝国が崩壊して親仏のライン同盟が結成された。中立の立場をとっていたプロイセン王国は、北ドイツからドイツ各地に勢力を広げ始め、ブランデンブルクは1806年にブランデンブルク州(英語版)となった。ポメラニアは、1814年キール条約デンマーク=ノルウェーを解体したスウェーデンノルウェーを獲得する引き替えに代償として譲渡する事とされていたが、ウィーン会議1814年 - 1815年)でプロイセン王国に割譲された。


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