東プロイセン
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ソビエト軍が占領1945年

現在 ロシア
カリーニングラード州
 ポーランド
 リトアニア
1881年の東プロイセン地図14世紀の東プロイセン

東プロイセン(ひがしプロイセン、ドイツ語: Ostpreusen、ポーランド語: Prusy Wschodnie、ロシア語: Восточная Пруссия、リトアニア語: Ryt? Pr?sija)は、ヨーロッパバルト海の南岸にある地域の歴史的な地名である。ワイクセル川ヴィスワ川)とメーメル川ネマン川)に挟まれている[1]。「プロイセン」を英語読みとした東プロシア、あるいは「東」をドイツ語読みとしたオストプロイセンとしても知られている。首都は、ケーニヒスベルク

東プロイセンは、バルト民族プルーセン人が住み、13世紀に十字軍運動によりドイツ騎士団によって征服され、ドイツ騎士団国となった。ドイツ騎士団国は1525年プロイセン公国となり、プロイセン公国は1701年に王国へ昇格した。1772年ポーランド・リトアニア共和国の分割西プロイセンすなわち王領プロイセンポーランド王国領であった)もプロイセン王国領となると、それまで飛び地だった東プロイセンは王国の残りの部分と陸続きになった。1871年ドイツ帝国が成立すると、東プロイセンもその一部となった。

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約で、西プロイセンがポーランド領(ポーランド回廊)となると、東プロイセンは再び飛び地となった。またこのとき、メーメルが分割されてリトアニア領となっている。第二次世界大戦まではワイマール共和国プロイセン自由州北東端の地域であった[1]ナチス・ドイツが第二次世界大戦に敗れると、東プロイセンはソ連ポーランドによって分割された。ソ連領となった部分はソ連崩壊後、さらにロシアとリトアニアに分割された。

そのため、現在はポーランドロシアリトアニアに属している。
歴史
ドイツ騎士団

プロイセンにはゲルマン民族スラブ民族とは異なるバルト民族プルーセン人が住み、古プロイセン語が話されていた。

1226年、ポーランドのコンラト1世は異教徒プルーセン人に対する征討と教化に手を焼いて[2]、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招聘した。騎士団は征服し、教皇の名の下でプロイセンを統治し布教した。プルーセン人はカトリックに改宗し、ドイツ騎士団国となった。ドイツ人東方植民によりドイツ系住民が増大した。ドイツ人人口が大多数となり、何世紀かの間にプルーセン人はドイツ化し、少数民族にはポーランド人とリトアニア人がいた。プレーゲル川の河口の港町ケーニヒスベルクハンザ同盟都市)は、琥珀など流域の物資を集散しバルト海を通じて交易するこの地域の中心都市として繁栄していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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