天安門事件の翌年の1990年4月5日から6日にかけて、カシュガルから30kmほどに位置する新疆西部クズルス・キルギス自治州のアクト県バリン郷においてバリン郷事件
1990年代
バリン郷事件
4月5日未明、郷政府を襲撃したウイグル人住民230名余りが、コーランを唱えデモを行った。「聖戦による漢人駆逐」という反漢的なスローガンも出された[3]。
説得に応じなかったデモ隊に対して郷政府所属中国人民武装警察部隊が出動、銃撃を行い、銃撃戦となった。
デモを指導したツェディン・ユスプら15名が射殺された[5]。国際人権救援機構(アムネスティ・インターナショナル)は死者50名、6000名が「反革命罪」で訴追されたと報告している[6][7]。
デモの中心になったのはキルギス人で、「われわれはトルキスタン人だ」と主張し、入植した漢民族の追放、新疆での核実験や産児制限への反対、自治の更なる拡大が求められた[8]。この大規模な武装蜂起は、鎮圧に人民解放軍や武警、新疆生産建設兵団所属の民兵が動員され、両者ともに多数の犠牲者を出している。
前年6月の天安門事件を踏まえて中国政府および現地郷政府当局は「反革命罪」「東トルキスタン共和国の樹立を目指す分離主義による暴動等のテロ」と国家の安全を脅かすような行為であるとして認定している。毛里和子は中国政府らによる認定について「数頭の馬、斧、少々の手榴弾で“武装”したたった200人余りの“暴徒”が共産党の支配を覆し新疆を独立させることができるは、誰が考えても現実的ではない」と指摘している[7]。 1991年のソ連邦の崩壊による中央アジア諸国の独立は、ウイグル人の政治的な独立を求める機運を高めた[9][10]。それにともない、危機感を強めた中国政府による知識人や民族エリートに対する引き締めが強化された。 1991年にはウイグル人作家トルグン・アルマスの著作『ウイグル人』が、「大ウイグル主義的」「民族分裂主義的」であると公的に批判され、著作が発禁処分となったほか、著者も軟禁状態に置かれた。 同1991年には、北新疆や南新疆の各都市で反政府デモが発生し、武力衝突にいたった[11]。 1993年には、反政府とみられる爆破事件が発生している[11]。 1994年にキルギスタン国会議員ヌルムハメド・ケンジェフ
作家トルグン・アルマス逮捕
キルギスタン・カザフスタンの人物による批判
また両者はロプノールでの核実験を批判している。1964年以来、新疆ウイグル自治区ロプノール湖は核実験場として使われ、1996年までに核実験が45回に渡り実施され、1980年までに行なわれた核実験は、地下核実験ではなく地上であった。
物理学者の高田純は、核実験によって東トルキスタン)の広範囲の土地が放射能で汚染され、現地ウイグル人ら19万人が急死、急性の放射線障害などによる被害者が129万人に達するとしている[13]。
ウイグル人医師のアニワル・トフティは、ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が他の地域に住む漢民族と比べて35%も高く、漢民族であっても新疆ウイグル自治区に30年以上住んでいるものは、悪性腫瘍の発生率がウイグル人と同程度としている[14]。 1995年7月には南疆ホータン市で、イスラーム原理主義(復興主義)の立場にあるワッハーブ派が、イスラーム共和国樹立を訴えた[11]。当局はこのモスク管理者を解任したが、これに際して「中国共産党は宗教に干渉するな」と抗議デモを行い、警察に鎮圧されている。
ワッハーブ派による抗議
アルンハン・ハジ暗殺未遂事件