東トルキスタン共和国
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1933年4月12日、参謀処長陳中(中国語版)がイリへ逃れてきていた白系ロシア人満州族の傭兵(帰化軍)を擁して蜂起(四・十二クーデター)。金樹仁はソ連に亡命。

1933年6月、馬仲英が再び侵攻し、ハミ、木塁河古城で漢族を虐殺した。ウルムチから送られた呉藹宸と和平案を締結し、ハミを馬仲英に与える事で一旦合意した。しかし、すぐに戦闘が再開され、馬仲英軍に帰化軍が圧倒され、滋泥泉まで押し込まれた。にわかに雪が降ると雪に慣れていた東北抗日義勇軍[注釈 1]が馬仲英軍を撃破し、馬仲英は西のソ連領に逃亡した。6月26日、ウルムチでクーデターを企てた陳中(中国語版)、李笑天、陶明?が粛正された。7月、馬仲英とホージャ・ニヤーズが交戦し、馬仲英がトクスンを占領し、ホージャ・ニヤーズは脱出した(トクスンの戦い)。8月1日、盛世才が新疆辺防督弁に正式に任命された。10月、盛世才は同様に東北抗日義勇軍の指導者鄭潤成を銃殺し、同軍を解散させた。政府首脳 国章の前に座る, 1933

回族軍閥の侵入を受けなかったタリム盆地南部のホータンでも、1933年初頭にムハンマド・アミーン・ブグラらが、在地の宗教指導者をリーダーに戴き、反乱を起こした。ホータンの反乱軍は漢族の官吏を追放してホータンを支配すると、西のヤルカンドカシュガルへ進軍し、ハミ、トゥルファンから逃亡してきたホージャ・ニヤーズらの勢力を糾合して11月12日に東トルキスタン・イスラーム共和国の建国を宣言した[1]

共和国の大統領には、ハミの勢力を代表しホージャ・ニヤーズが、首相にはホータンの勢力を代表しサービト・ダーモッラーが就任した。彼らはイギリストルコなどの諸外国の承認を得て独立を国際的に認めさせようとしたが失敗している。東トルキスタン・イスラーム共和国独立宣言(東トルキスタンカシュガル。1933年11月12日)

盛世才の新疆省政府は、トゥルファンを占拠する馬仲英にウルムチを脅かされていたが、ソビエト連邦に介入を要請。翌1934年の初頭に新疆に入ったソ連軍によってトゥルファンを追われた馬仲英の軍は、ホータンに侵攻し、東トルキスタン・イスラーム共和国の軍隊を壊滅させた。

共和国崩壊を受け、大統領のホージャ・ニヤーズは、ソ連を通じて省政府督軍の盛世才と交渉を行い、首相のサービト・ダーモッラーを新疆省政府に引渡し、自らは省政府副主席に就任し、盛世才率いる省政府に寝返った[2]

宗教指導者に率いられた第1次東トルキスタン共和国の設立に中心的に活躍したのは、ロシア領の西トルキスタンで1910年代に行われたジャディード運動に影響を受けた商人・知識人層であり、20世紀初頭から始まった東トルキスタンの民族運動のひとつの結実を示す事件であった。

1934年3月、国民政府が盛世才を新疆省政府主席に任命すると、盛世才はホージャ・ニヤーズを省政府副主席に任命した。1936年に盛世才が新疆省への入境に査証を義務化して、中国内地からの影響を遮断し、事実上独立国とした。
第2次東トルキスタン共和国詳細は「第2次東トルキスタン共和国(英語版)」を参照

1944年から1946年にかけて存在した第2次の東トルキスタン共和国は、第二次世界大戦期にソ連の支持を得て高揚した東トルキスタン独立運動によって、新疆省の北部のグルジャに樹立された政権である。中華人民共和国では、中国革命の一環として行われた反国民政府運動のひとつと見なされている。

彼らの政治運動は、当時10区あった新疆省の行政監察区のうち、第2(イリ)、第5(タルバガタイ)、第6(アルタイ)の三地区を支配したことから「三区革命」と呼ばれている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}実際には中国からの独立政権を目指していた[要出典]。

第2次東トルキスタン共和国の実効支配域

東トルキスタン共和国国旗

東トルキスタン共和国軍旗
詳細は「イリ事変(英語版)」を参照

1944年にイリ渓谷グルジャ(伊寧市)で蜂起した独立軍が同年11月12日に建国した[1]。反乱軍にはソ連軍(赤軍)が、装備、要員面で協力しており、12月までにイリ地区の全域が反乱軍の手に落ちた。また、翌1945年には、ソ連領の西トルキスタンで教育や訓練を受けたカザフ人ゲリラ勢力が、アルタイ地区、タルバガタイ地区を占領し、東トルキスタン政権に合流した。共和国主席に就任したアリハーン・トラ

共和国の元になった反乱軍は親ソ派ウイグル知識人のアブドゥルキリム・アバソフが指導していたが、共和国政府は、ウイグル人だけではなく東トルキスタンに居住する全テュルク系ムスリムを糾合させる汎テュルク主義を標榜していた。共和国の主席には親ソ派ウズベク人の宗教指導者で主戦派のアリハーン・トラが、副主席にはグルジャの名家出身の有力者アキムベク・ホージャ(Hakim Beg Hoja / Asim Beg Hoja)が就任し、ムスリム社会の上層部の人々が積極的に政権に招聘された[3]

しかし実際には、共和国は軍事部門を中心に、ソ連国籍を持つロシア人やテュルク系民族出身の要員に指導されており、ソ連の強い影響下に置かれていた[4]。共和国政府では、中国国民党との交渉で台頭した親ソ派のアフメトジャン・カスィミが次第に実権を掌握していった[5]
新疆省連合政府詳細は「北塔山事件(英語版)」を参照

1945年9月、東トルキスタン軍が、ウルムチへの進軍を始めたため、新疆省政府はソ連に和平の仲介を要請した。「独立国」東トルキスタン共和国の頭越しにソ連と国民政府の直接交渉が行われ、ソ連はアリハーン・トラ主席を自国に連れ去ってしまった。この結果、東トルキスタン共和国は1946年、ソ連の意思に従って新疆省政府に合流し、東トルキスタン・イリ専署(イリ専区参議会)と改称した。

しかし、新疆省政府と東トルキスタン・イリ専署が合同して成立した新疆省連合政府は1947年5月ごろに崩壊し、副主席アフメトジャンをはじめとする旧共和国派はイリ地方に退去して、かつての東トルキスタン共和国の領域を再び支配しはじめた。同年翌月にはソ連の支援を受けたモンゴル人民革命軍と中華民国軍が新疆で武力衝突した北塔山事件が起きた。
中国共産党のウイグル侵攻中華人民共和国国旗詳細は「zh:三区革命」を参照

1949年、国共内戦を制した中国共産党は、新疆の接収を行うために、ケ力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京政治協商会議に招いた。しかし、8月27日北京に向かった3地域の11人のリーダー達、アフメトジャン・カスィミ(Ehmetjan Qasim)、アブドゥルキリム・アバソフ(Abdulkerim Abbas)、イスハクベグ・モノノフ(Ishaq Beg Munonov)、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、デレリカン・スグルバヨフ(Dalelkhan Sugirbayev)らイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内アルマトイで消息を絶った。首脳を失ったイリ政府は混乱に陥ったが、残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが陸路で北京へ赴き、政治協商会議に参加して共産党への服属を表明した。9月26日にはブルハン・シャヒディら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。
人民解放軍による侵攻詳細は「新疆侵攻」を参照

12月までに中国人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された[6](新疆侵攻)。ウイグル族とソ連領中央アジア出身者、モンゴル族シベ族回族で構成された東トルキスタン共和国軍(イリ民族軍)を野戦第五軍に編入した人民解放軍に対抗して、国民党側についたウイグル族のユルバース・カーンは白系ロシア人と中国人ムスリムの軍(帰化軍)を率いていた。


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