正式名称は Republika Demokratika Timor Lorosa'e(テトゥン語: レプブリカ・デモクラティカ・ティモール・ロロサエ)、Republica Democratica de Timor-Leste(ポルトガル語:レプーブリカ・デモクラーティカ・ド・ティモール・レステ)。略称は、Timor Lorosa'e(テトゥン語)、Timor-Leste (ポルトガル語)。
公式の英語表記は Democratic Republic of Timor-Leste、略称は Timor-Leste[4]。意訳したEast Timorでも通じるが[5]、東ティモールの常任使節団は2003年8月8日付の書簡ですべての言語の表記を「Timor-Leste」に変更するよう国際連合へ要請している[4]。東ティモール政府の英語版公式サイトの「歴史」の項目は、独立以前の記述では「East Timor」表記が散見されるが、独立後の国家を指す場合は「Timor-Leste」に統一されている[6]。
日本語の表記は東ティモール民主共和国。通称東ティモール。ティモールの部分は、チモールとも表記される(近年では「ティモール」の表記が一般的である)。
国名は「ティモール島の東部」を意味するが、ティモールの由来はマレー語・インドネシア語で「東」を意味する「ティムール(timur)」であり、語源的には重複表現となっている。テトゥン語の「ロロ」は「太陽」、「サエ」は「出る」、「ロロサエ」は「日の出」またはその方角(「東」)を意味する。ポルトガル語の「レスチ」(英語読みは「レステ」)も「東」を意味する。
歴史詳細は「東ティモールの歴史(英語版
ポルトガルの植民地になるはるか昔、紀元前2000年ごろパプア系語族が島の東部へ移住していき、ずっと時代が下って紀元10世紀ごろオーストロネシア語族が流入してきたと伝えられている。さらに紀元前3000年ごろと同2000年ごろの 2度にわたって、インド=マレー系エスニックグループが移住してきたとの説もある[7]。
ポルトガル植民地ポルトガル領ティモールの国章詳細は「ポルトガル領ティモール」を参照
ティモール島は16世紀にポルトガルによって植民地化された。その後オランダが進出し、一時はポルトガルがこれを撃退したが、1859年に西ティモールとソロール島をオランダに割譲したことで、ティモール島は東西に分割された(リスボン条約
(ドイツ語版))。この境界については1893年にポルトガルとオランダ間で細部の改正が行われ、1904年にポルトガル=オランダ条約(1908年批准)で直線的に分断し、1913年[8](または1914年[9])に基本合意し、1916年に確定した。1911年から翌年にかけて、収奪の厳しさに耐えかねてリウライ(マヌファヒ小国王)のドン・ドンボアベントゥラが反乱を起こした。戦死者3,424人、負傷者1万2,567人を出した。さらに、1959年にピケケ県知事誘拐・蜂起事件が亡命インドネシア人と東ティモール人らによって引き起こされた。150人の死者が出たとの説もある[10]。
ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、当初は1941年にオランダ軍とオーストラリア軍が保護占領し、ティモール島の戦い(英語版)のあとオランダ領東インド地域と合わせて1942年に日本軍が占領したが、1945年の日本の敗戦によりオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活し、1949年にインドネシアの一部として西ティモールの独立が確定したあともポルトガルによる支配が継続した。これに対し、人口の中で圧倒的多数を占める地元住民は独立志向を強めたが、アントニオ・サラザール首相などの「エスタド・ノヴォ体制」により抑圧された。
1974年にポルトガルで左派を中心としたカーネーション革命が起こり、植民地の維持を強く主張した従来の保守独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも政治活動が自由化される。まずポルトガルとの関係維持を掲げるティモール民主同盟(UDT)[注釈 1]が発足し、続いて左派・反植民地主義のティモール社会民主協会(ASDT、9月に東ティモール独立革命戦線FRETILIN(フレティリン)と改称)が即時完全独立を要求[注釈 2]、遅れてインドネシアとの統合を主張するティモール民主人民協会(APODETI、アポデティ)[注釈 3]が立ちあげられ、主要3政党として旗揚げした[11][12][13]。
東ティモールでは、1974年9月にUDTが独立支持へ方針転換し1975年初頭からフレティリンと共同戦線を張っていたが、相互不信や同盟指導部の人事問題で決裂していた。1975年8月11日、UDTはポルトガル総督府を相手にクーデターを行う。これに対してフレティリンは軍事部門「東ティモール民族解放軍」(Forcas Armadas da Libertacao Nacional de Timor-Leste、FALINTIL)を組織し、撤退したポルトガル軍の武器を回収して武装化、UDT側と内戦を開始した[14][15]。状況を制御できなくなったポルトガル側はディリを放棄し8月下旬にアタウロ島へ退避、10月初めにはポルトガル本国から派遣された軍艦で本国へと帰還した。
これらの動きは、東ティモールの領有権を主張し反共主義を国是とするインドネシアのスハルト政権にとっては容認できず、アポデティやUDT内の反共派など、反フレティリンの右派勢力を通じた介入を強化した。
インドネシアによる占領詳細は「インドネシア占領下の東ティモール(英語版)」を参照インドネシアからの独立デモ
1975年11月28日、右派勢力と連携したインドネシア軍特殊部隊が西ティモールから侵攻を開始する中、フレティリンが首都ディリで東ティモール民主共和国の独立宣言を行う。翌29日、インドネシア軍が東ティモール全土を制圧し、30日にはアポデティ指導層などからなる親インドネシア派が併合を承認する「バリボ宣言」を出した(国連はこれを認めず)。12月7日、インドネシアは東ティモールに対する全面侵攻「スロジャ作戦」を開始。12月12日には国連安全保障理事会がインドネシアの即時撤退を求める決議を可決した。1976年7月17日、インドネシアが27番目の州として併合宣言を行う。国連総会ではこの侵攻と占領を非難する決議が直ちに採択されたが、日・欧・米・豪などの主要国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認した。
インドネシアが併合した時点の状況は、主食のコメやトウモロコシの大半はインドネシア国内からの移入に頼っていた。インドネシア自体も米不足で輸入に頼っていた状況であり、1978年以降は西部のマリアナ一帯で灌漑事業が進められるなど食料自給体制の向上が進められた。また、文盲率が93%と高率であったため、インドネシア側から教師が派遣され[16]、結果的に文化面の同一化も進んだ。
1977年にはインドネシア軍が包囲殲滅作戦を展開。スハルト政権は東ティモールの抵抗に対して激しい弾圧を加えたため、特に占領直後から1980年代までに多くの人々が殺戮や飢餓により命を落とした。インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言われている。1991年、平和的なデモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、400人近くを殺したサンタクルス事件は、住民の大量殺戮事件として世界的に知られることになった。また、官吏や教員などを派遣して徹底した「インドネシア化」も推進した。フレティリンの軍事部門であるファリンテルは民族抵抗革命評議会(CRRN)の主要メンバーとなり、シャナナ・グスマンが議長になったが、インドネシア政府はグスマンを逮捕し抵抗運動を抑え込んだ。1996年12月、ノーベル平和賞が現地カトリック教会のベロ司教および独立運動家のジョゼ・ラモス=オルタに贈られた。