東スラヴ人
[Wikipedia|▼Menu]
もう一つのグループはポメラニアから北東方向へ移動し、そこでルーシ・カガン国ヴァリャーグと遭遇した。彼らは重要な中心地であるノヴゴロドを築き、今日のトヴェリ州ベロゼルスク周辺で定住し始め、最終的にはメリャ人の土地まで達し、ドニエプルのグループと合流を果たした。
キエフ・ルーシ時代以前詳細は「ルーシ・カガン国」を参照『ボヤーン』 (グースリを弾く吟遊詩人ボヤーン)、ヴィクトル・ヴァスネツォフ画 (1910年)

南方に居住する東スラヴは8世紀からハザール・カガン国に貢ぎ物を差し出さなければならなかった。ハザールはテュルク諸語ハザール語を話す民で、8世紀後半か9世紀に支配階級がユダヤ教に改宗し、南ヴォルガ川流域及びカフカース地方を支配していた。おおよそ同時期に、北方のイリメニ・スロヴェーネ族(en)とクリーヴィチ族は当時バルト海から東ローマ帝国までの貿易路を抑えていたルーシ・カガン国ヴァリャーグによって支配されていた。ルーシ・カガン国はヴァリャーグの国家ではなく、現地の東スラヴ人の国家であるという説もある(国家群の民族構成は、ノース人、東スラヴ人、フィン人テュルク系民族などであるが、ヴァリャーグ以外の活動は資料上あまり見られない。多民族国家であるため、混血していたとも言われている)。

当時の東スラヴ人の中心都市はノヴゴロド、イズボールスク、ポロツク、グニョーズドヴォ、サルスコエ・ゴロディシュチェ、及びキエフなどである。考古学の研究によれば、これらの都市が登場するのは10世紀に入ったところで、ノヴゴロドのスラヴ人とフィン人がヴァリャーグをスカンディナヴィアに追い返した直後である。ルーシ・カガン国は、その後衰退し、最後は発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。
キエフ・ルーシ時代詳細は「キエフ大公国」を参照『ルーシの洗礼』 (キエフ大公国をキリスト教化したウラジーミル1世による、キエフの人々への洗礼)、アレクセイ・キフシェンコ画 (1880年)

その後、スラヴ人の招聘によりヴァリャーグがノヴゴロドに戻り、首都をキエフに移した。これについては、ヴァリャーグは招聘されたのではなく侵略し、キエフの現地の公朝(恐らくはポリャーネ族の公朝)を倒して政権を乗っ取ったのを、のちに権力の正当化のために外来王招聘説を取り入れて年代記を作成したものであるという説もある。ヴァリャーグ人の君主と東スラヴ人の貴族・国民からなるリューリク朝キエフ大公国は、キエフを拠点にコンスタンティノポリスに対し何回か遠征を行った。

当初、ヴァリャーグはスラヴ人の支配階級であったが、彼ら10世紀末までに急速にスラヴ化していた。スヴャトスラフ1世(在位945年 - 972年)は初めてスラヴ風の名前を持つルーシの君主で、このころにはスラヴ化がかなりの度合いで進んでいたことを物語っている(建国者はヴァリャーグを構成するルーシ族であるが、スラヴ系のルーシ人とは異なっており、ノルマン系であったものがスラヴ人と混血し、同化されたものと見られているものの、定説とはなっていない)。
東スラヴ人とは何か : マクロの視点、ミクロの視点[要出典]

後年になって、東スラヴの地を領土としたモスクワ国家モスクワ大公国)や後継のロシア帝国が「東スラヴ人とはルーシ人、すなわち汎ロシア人であり、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の共通の祖先である」という歴史学を唱えるようになった。こうしたマクロのテーブルに着いた見解に対し、ミクロのテーブル上では見解が異なっている。現代の東スラヴ人に含まれるウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人の各民族をそれぞれに独自の出自を持つ固有の民族とみなし、ルーシ人を汎ロシア人とみなすモスクワ歴史学に異議を唱えたウクライナ歴史学諸派は、帝政政府やソ連政府からの厳しい弾圧を受けることとなった[要出典]。

なお、ウクライナ歴史学諸派によれば、居住地域、言語・伝統などを考えた場合、ルーシ人はウクライナ・ルーシ人(ウクライナ人やルシン人)になったと考えるのが妥当で、モスクワ歴史学でいうようにロシア人がルーシ人の直系の子孫であるのならば、彼らの近世に至るまでの出自が不明になってしまうという。彼らの歴史学では、東スラヴ人というのは並列する各民族の集合体であり、分岐する共通の祖先を前提とはしない[要出典]。

ロシア人の地域にはもともとロシア人に連なる東スラヴ系の民族が居住しており、それらの民族がロシア人のルーツであるという意見がある一方、現代でも「ウクライナ人・ベラルーシ人などというのは民族主義に毒されてごく最近に現れた人工的な民族区分であり、本来彼らはすべてロシア人である」と主張する人も少なくはない[要出典]。
関連項目

西スラヴ人

南スラヴ人

東スラヴ語群










スラヴ系民族
東スラヴ人

ウクライナ人

フツル人(英語版)

ベラルーシ人

ボィコ人(英語版)

ポリシチュク人(英語版)

ポモール

ルシン人

レムコ人(英語版)

ロシア人

西スラヴ人

レヒト人(英語版)

カシューブ人

グラル人

シレジア人

スロバキア人

ソルブ人

チェコ人

ポーランド人

モラヴィア人

南スラヴ人

クラショヴァ人(英語版)

クロアチア人

ゴーラ人

ショカツ人

スロベニア人

セルビア人

バナト・ブルガリア人

ブニェヴァツ人

ブルガリア人

ボシュニャク人

ポマク

マケドニア人

モンテネグロ人



歴史的民族集団に関してはカテゴリ:スラヴ系民族を参照










スラヴ人の部族
東スラヴ人


ウリチ族

ヴォルィニャーネ族

ヴャチチ族

クリヴィチ族

スロヴェネ族

白クロアチア族

セヴェリャーネ族

チヴェルツィ族


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef