東ゴート王国
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そのためテオドリックは彼に同意した僅かな者たちだけで488年モエシアを出てイタリアへ向かい、同地で新たな戦士団を徴募した[3]。このときテオドリックがイタリア遠征のために新たに組織した集団が後に東ゴート人と呼ばれるようになるのだが、この集団はゴート人を中心としつつもローマ人やルギー族(英語版)等からなる混成集団であり、もともとはゴート人ではなかった者も多かった[3][注 1]

489年8月28日、イゾンツォ川に到達したテオドリックの軍は、オドアケルの派遣した軍と衝突、このイゾンツォの戦いでテオドリックは勝利を収め、翌月にはウェロニア(現: ヴェローナ)に到達した。ヴェローナのオドアケル軍に勝利したテオドリックは、続いてメディラヌム(現: ミラノ)を占拠、当地でのオドアケル側の軍事長官であったトゥファを味方に引き入れることに成功した。しかし、テオドリックの命でラヴェンナ攻略に向かったトゥファは再度寝返り、テオドリックの軍をティキヌム(現: パヴィーア)に後退させ、オドアケルの援軍とともに市を包囲した[6]490年西ゴート王国の王アラリック2世の援軍を得たテオドリックは、ティキヌムを包囲したオドアケルの軍勢を放逐すると、イタリア各地を占領、逆にオドアケルが籠城するラヴェンナを包囲した[7]。海上を全面封鎖され、陸戦でも戦果を挙げられなかったオドアケルは、493年3月5日、ラヴェンナ司教ヨハネスの仲介により降伏したが、テオドリックは彼を謀殺した。

この戦勝によってテオドリックは従士団から王として推戴された[8][9]。東ローマ帝国の皇帝アナスタシウス1世497年にテオドリックが『栄光この上ない王(rex gloriosissmus)』の称号を名乗ることを公認した[9]。アナスタシウス1世はテオドリックに帝衣と帝冠を授け[9]、西ローマ帝国を統治する皇帝大権を与えた[10][11]。これによってイタリアにイタリア王と東ゴート王国が成立したとされる[12][13]。ただし東ゴート王国の成立はイタリアにローマ帝国と異なる国家が誕生したという意味ではない[14]。東ゴート王国とはローマ帝国の軍隊駐屯法に従ってイタリア本土に配置された西ローマ帝国の守備隊のことであり、その領土や住民は依然として西ローマ帝国のものであった。王となったテオドリックも、ローマ帝国にとっては皇帝からイタリアの軍司令官に任ぜられた臣下の一人に過ぎなかった[13]
大王テオドリックによる治世523年時点でのテオドリック大王の統治領域。点描で示された領域は間接的にテオドリック大王の支配下にあった領域。

イタリアとパンノニアを平定したテオドリックは外交に力を入れ、近隣国と積極的に婚姻関係を結んだ。それまで、テオドリックは側室のみを持っていたが、493年3月にはフランク王クローヴィス1世(クロドウェック)の妹オードフレダ(アウドフレーダ)を正室に迎えた。また、娘のティウディゴートを西ゴート王アラリック2世に、オストロゴートをブルグント王ジギスムントに嫁がせ、500年頃には妹のアマラフリーダをヴァンダル王トラサムントに輿入れさせた[15]

こうした婚姻政策は、諸勢力との軋轢を排除するためのものであったが、フランク王国502年にブルグント王国を占領[16]507年には西ゴート領であった南フランスに侵入し、勢力の拡大を計った。フランク王国の拡大を警戒したテオドリックは、フランク王国に抵抗するチューリング王国やアラマンニ人を保護したほか、508年、将軍イッバの指揮する軍を差し向け、アレラテ(現: アルル)を占拠、南フランスからフランク王国の影響を一掃した。

しかし、テオドリックのフランク王国封じ込めの動きや、パンノニアの国境にあった山賊集団の支援は、東ローマ帝国に警戒感を持たせることになった。東ローマ帝国は、テオドリックを牽制するため、イタリア半島沿岸に艦隊を差し向けたほか、ヴァンダル王国の懐柔に乗り出した。518年には、東ローマ皇帝となったユスティヌス1世がアリウス派を弾圧しはじめ、ローマ教皇がこれに同調したため、東ゴート王国は動揺をきたした。

東ローマ帝国の圧力は、まずヴァンダル王国との反目という形で現れた。523年にトラサムントが死んだことによって、ヴァンダル王国は東ローマ帝国寄りの姿勢をとり、テオドリックの妹アマラフリーダら親東ゴート派を殺害した。さらに東ローマ帝国は、ローマ貴族で西ローマ帝国の執政官であったボエティウスの処刑をアリウス派による迫害とし、アリウス派への信仰を禁止した。これに対してテオドリックは、ローマ教皇ヨハネス1世をコンスタンティノポリスに派遣して弁明を行ったが、全く効果はなかった。テオドリックは期待に応えられなかったヨハネス1世を軟禁し、憤死させたが、これがかえって東ローマ帝国との軋轢を深めることになった[17]
アマル王家による王位世襲の断絶

526年、テオドリックは男子後継者をもうけることなく死に[18]、テオドリックの娘アマラスンタの子アタラリックが国王に即位した。しかし、アタラリックは幼少であったため、アマラスンタが摂政として政治の一切を取り仕切った[19]。彼女の政治はテオドリックの理念に忠実なもので、東ゴート王国はしばらく平穏だったが、532年から533年にかけて情勢はにわかに剣呑になっていった。かねてよりテオドリック、アマラスンタと反目していたテオドリックの甥テオダハドや、軍最高司令官であったトゥリンら国内の反アマラスンタ勢力は、公然と彼女の政治批判を行うようになり、アマラスンタは東ローマ帝国への亡命を真剣に考えるようになった。しかし、彼女はフランク王国の軍勢が北イタリアのアレラテ(現: アルル)に侵攻したことを機に、トゥリンら反逆の中心人物を鎮圧に派遣、同地で刺客に襲わせて殺害した。

534年10月2日、アタラリックが早逝したため、アマラスンタは東ゴート王国の女王として即位した。この女王即位に関して、彼女はユスティニアヌスとの同盟交渉を行い、その承認を得ている。反目していたテオダハドを懐柔し、彼を共同統治者として指名したが、結果的にはこれがアマル家没落の原因となった。534年12月、テオダハドは突如反乱を起こし、アマラスンタをローマ北方のウォルシニィ湖(現: ボルセーナ湖)のマルタナ島に幽閉した。東ローマ帝国からの積極的な庇護も受けられなかった彼女は、535年4月30日、暗殺された。

テオダハドは、ユスティニアヌスにアマラスンタ暗殺の釈明をおこなったが、東ローマ帝国は庇護者である女王暗殺を帝国に対する挑戦とし、開戦の準備を始めた。一方テオダハドは、アマラスンタ暗殺を知ったローマ人たちが争乱を起こしかけたため、国内の内乱を防止するために軍を展開せざるを得なかった。テオダハド討伐のために派遣された将軍ムンドの陸戦部隊は、535年末までにダルタティア全土を制圧、また将軍ベリサリウス率いる艦隊は535年12月31日にシチリアを落とした。

皇帝軍の侵攻を畏れたテオダハドは、皇帝使節のペトルスに対し停戦交渉を始めたが、ベリサリウスがカルタゴの反乱鎮圧に向かい、北ではゴート軍がダルマティアのムンド率いる東ローマ軍を殲滅したため、テオダハドは一転して東ローマに対する強硬姿勢をとり始めた。536年、カルタゴを平定したベリサリウスはイタリア本土に向け進軍、レギウム(現: レッジョ・ディ・カラブリア)、ネアポリス(現: ナポリ)を陥落させた。政治的にも軍事的にも有効な手段をとらなかったテオダハドは、ローマ郊外に集結したゴート軍に合流したが、ゴート軍の司令官たちは536年11月、テオダハドに退位を迫った。このため、テオダハドは陣地からラヴェンナに逃走するが、途上でゴート軍の刺客に暗殺された。ここにアマル王家による王位の世襲は途絶えた。
ゴート戦争と王国の滅亡「ゴート戦争」も参照

王位は、ゴート軍指揮官ウィティギスに継承された。彼は北イタリアの全軍の集結と王位の確立を図るためラヴェンナに撤退したが、この間、ベリサリウスに、ローマ、ペルシア(現: ペルージャ)などを占領された。ウィティギスは王位継承を正当なものとするため妻と離婚、アマル家の数少ない生き残りでアマラスンタの娘マタスンタと強引に婚姻関係を結んだ。

537年、フランク王国との交渉でプロヴァンス一帯を譲渡する代わりに和平を結ぶと、11月末には全軍をラヴェンナに集結させ、ローマに進軍した。


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