杜甫
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この頃の代表作として崩壊した長安の春の眺めを詠じた「春望」、社会の矛盾を鋭く指摘した「三吏三別[注 3]」、華州司功参軍を辞した後に訪れた秦州での様子を細かに描写した「秦州雑詩二十首」がある[3]

支援者にも恵まれ、穏やかな生活を過ごせた成都時代(乾元2年-宝応元年)では、それまでの悲しみや絶望感に満ちた詩にかわって、自然に自然が人間に示す善意に眼ざめ、また、人間も善意に満ちた自然の一部であることを自覚し、自然に対する穏やかな思いを詠んだ詩が多く作られている。この蜀というところは、もともと中原と隔絶した、物資もなお豊かな所で、人の心もまだ多少ゆとりがあったのであろう[2]。寺に遊んだ時の作「後遊」や杜甫の住む草堂近くの浣花渓が増水したことを子どもが杜甫に知らせに来るといったささやかな日常を描いた「江漲」、諸葛亮を讃えた「蜀相」などがこの頃の代表作である[4]

成都を去って以後、?州などで過ごした最晩年期の杜甫は、社会の動乱や病によって生じる自らの憂愁それ自体も、人間が生きている証であり、その生命力は詩を通して時代を超えて持続すると見なす境地に達した。?州以降も詩作への意欲は衰えず、多方面にわたって、多くの詩を残している。詩にうたわれる悲哀も、それまでの自己の不遇あるいは国家や社会の矛盾から発せられた調子とは異なる、ある種の荘厳な趣を持つようになる[5]。この時期の代表作に、「秋興八首」「旅夜書懐」「登高」などがある。

また杜甫は『文選』を非常に重んじた詩人としても知られる。次男の杜宗武の誕生日に贈った「宗武生日」に「熟読せよ文選の理に」との文言が見えるなど、この言葉からも『文選』を重視していたことはうかがわれる。杜甫は『文選』に見える語をそのまま用いるだけでなく、『文選』に着想を得て、新たな詩の表現を広げようと追及していた。詩の表現への執着は「江上値水如海勢聊短述」の「人と為り性僻にして佳句に耽ける、語人を脅かさずんば死すとも休まず」句が端的にそのことを示すだろう[6]
著名作品
絶句

ウィキソース「絶句」を参照。
春望

ウィキソース「春望」を参照。
飲中八仙歌

飲中八仙」の項目を参照。
関連史跡

成都杜甫草堂:杜甫は乾元2年(759年)9月に華州より成都に到った。そこで支援者の援助を受けつつ、桃の木や竹などを植えた草堂を建築した。杜甫はこの草堂にて多くの詩作を行った。杜甫が作った本来の草堂はもう失われているが、その後、再建されたものが現在、博物館となり観光地となっている。現存する建物の多くは明の弘治13年(1500年)と清の嘉慶16年(1811年)の二度の大改修時のものである。

杜公祠:陝西省西安市長安区少陵原畔に位置する。

受容と展開
詩人としての評価

杜甫の詩人としての評価は必ずしも没後短期間で確立したものでない。没後数十年の中唐期に、元?[7]白居易韓愈[8]らによってその評価は高まったものの、北宋の初期でさえ、当時一世を風靡した西崑派(晩唐の李商隠を模倣する一派)の指導者の楊億は、杜甫のことを「村夫子」(田舎の百姓親父)と呼び嫌っていたという[9]。一方、南宋初期の詩人である呉可は『蔵海詩話』の中で「詩を学ぶに、当に杜(甫)を以て体と為すべし」と述べている。

胡応麟の『詩藪』に「李絶杜律」とあるように、「絶句を得意とした李白と対照的に、杜甫は律詩に優れている」という評価が一般的である[要出典]。奔放自在な李白の詩風に対して、杜甫は多彩な要素を対句表現によって緊密にかつ有機的に構成するのを得意とする。
俳人への影響成都杜甫草堂内部

松尾芭蕉への影響が指摘されている[10]。芭蕉の「虚栗」の跋文に「李杜が心酒を嘗て」ということからも、杜甫の愛読者であったことがうかがわれる。また、芭蕉の「憶老杜」と題する作に「髪風を吹いて暮秋嘆ずるは誰が子ぞ」は杜甫の「白帝城最高楼」の「藜を杖つき世を歎ずるは誰が子ぞ、泣血 空に迸りて 白頭を回らす」をふまえているとされる[11]。臨終記録たる『花屋日記』[12]によると、芭蕉の遺品に『杜子美詩集』があったとされている。また、『奥の細道』の一節には、.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。  夏草や 兵どもが 夢のあと

と杜甫の「春望」を意識していることがうかがわれる。黒川洋一は芭蕉は多くの句に杜甫の句を典故に用いたり、また、杜甫の句に暗示を受けて作った作があるとする[13]

吉川幸次郎は、芭蕉と杜甫には単に類似の語がみられることにとどまらず、芭蕉が杜甫から得たものは「自然を単なる美としてとらえず、世界の象徴、ことに自己の生の象徴として感じ得たこと」と述べ、芭蕉の句は「生活の現実に触れた句」「芭蕉の内部にあるものを投影しようとして、外なる自然をとらえ得たと感ずる句」の二類に帰すると指摘し、そしてそれらは杜甫の句づくりに通ずるところがあると述べる[11]

芭蕉のほかには、与謝蕪村正岡子規等への影響が指摘されている[14]
参考文献
中国・台湾で刊行の注釈等

張元済『宋本杜工部集』(全20冊、上海商務印書館、1957年)
上海図書館の所蔵する宋代の本を写真版によって原寸通りに覆印した。現存最古のテキストであり、字句また詩の配列、北宋の時代に編定された形をそのままに示している
[15]

蔡夢弼『草堂詩箋』※全30巻本と全40巻本がある。古逸叢書に収録。また台湾の広文書局より刊行。

林継中輯校『杜詩趙次公先後解輯校』(全2冊、上海古籍出版社、1994年)※修訂版が2012年に出ている。


浦起竜『読杜心解』(全3冊、中華書局、初版1961年)

王嗣?『杜臆』(曹樹銘増校『杜臆増校』藝文印書館印行、1971年、台北)

wikisource:zh:杜詩?(明、唐元пB四庫収録)

銭謙益『銭注杜詩』(全2冊、上海古籍出版社、1979年) - wikisource:zh:杜工部集(詩體編、錢謙益注。但し、入力不完全。)

仇兆鰲『杜詩詳註』(全5冊、中華書局、第一版1979年)- wikisource:zh:杜詩詳註(仇兆鰲注、四庫収録。


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