杜甫
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この杜依芸の子・杜審言は「文章四友」の一人に数えられた初唐の宮廷詩人である[注 1]。この杜審言の子の杜閑が奉天の県令となり、その子が杜甫である。
杜甫はその遠祖の地によってしばしば「京兆の杜甫」と名のるが、同時に襄陽に分かれた支派の後裔として「襄陽の人」と呼ばれることも多い。一見矛盾する来歴は以上の経緯による。
また杜甫の叔父(杜審言の次男)の杜並は、杜審言が仇人司馬季重らのため、無実の罪を被せられて、獄につながれ、しかも事にかこつけて殺されているのを憤り、まだ13歳の少年であったが、仇人季重を刺殺し、その場で自分も殺された。この事件は当時世間を感動させたことであったが、杜甫の血液にはこうした剛直な精神も流れていたと見てもよいであろう[要出典]。杜甫の母は、清河崔氏の出身で、杜甫の幼少のときに亡くなった。ただこの母方の親戚はかなり大きな一族であった[2]

715年開元4年[注 2]) : 許州?城県で公孫大娘が剣器渾脱を舞うを見る。

718年(開元7年) : 初めて詩文を作成する。

720年(開元9年) : 初めて大字を習う。

725年(開元14年) : 故郷に隣接する洛陽文人の仲間入りを果たす[2]

730年(開元18年) : 晋に遊び、?瑕(現在の山西省運城市臨猗県)に至る。

731年 - 734年(開元19年 - 22年) : ・越に滞在する。

735年(開元23年) : 呉・越から洛陽に帰って来て、科挙進士を受験したが及第せず。

736年 - 740年(開元24年 - 28年) : に遊び、蘇源明と交わる。杜甫がこの地方に遊んだのは、当時父の杜閑が?州の司馬の官にあったので、その父のもとを尋ねるのが1つの目的であった[2]

737年(開元22年) : 洛陽に帰り、陸渾荘を造りそこに滞在する。ここには遠祖杜預の墓や、祖父杜審言の墓があった[2]

741年(開元29年) : 夫人楊氏と結婚する。楊氏は司農少卿楊怡の娘。この妻は彼の生涯の伴侶であり、一生を共にした。

742年天宝元年) : 姑母の万年県君が洛陽で亡くなる。杜甫は幼時に母を亡くしたため、この姑母のもとで養われたが、ある時姑母の子と同時に病気にかかった。姑母は自分の子よりも、杜甫の看護にいっそう力をつくし、そのお陰で杜甫は命が救われた。しかし姑母の子は死んでしまった。杜甫は後になってこのことを知り、深く姑母の恩に感じて、生涯忘れなかった。杜甫はそのために墓誌銘をつくった[2]

744年(天宝3載) : 5月祖母の范陽太君(祖父杜審言の継室盧氏)が陳留で亡くなった。8月、偃師に帰葬して、墓誌銘をつくった[2]。夏には、洛陽で李白と会う。秋には李白高適と共に梁宋(現在の河南省商丘市一帯)に遊ぶ。共に酒を飲み、詩を賦して、意気相投じて愉快な日を送った[2]

745年(天宝4載) : 斉に滞在する。そこで再び李白と会い、友好を結ぶ。李白と共に范十(十は排行)という人の隠居を訪れた。しかしこれが李白との最後の再会になった。杜甫は洛陽へと帰った[2]

746年(天宝5載) : 洛陽から長安に至る。その後10年をこの土地で過ごすことになる。杜甫はこの首都において、一官半職を求めて得られず、衣食に追われることになる。

747年(天宝6載) : 長安で一芸に通じる者のための試験が行われたが、落第。この試験では杜甫の他に高適や元結らも応じたが、もとより文学の士の政治批判を恐れた宰相李林甫は、尚書省に命じて1人も及第させなかった。杜甫はやむことを得ず当時の貴顕の門に出入することになる[2]

750年(天宝9載) : 長男の杜宗文(750?-)が生まれる。

751年(天宝10載) : 玄宗に「三大礼賦」を奉献する。玄宗がこれを賞し集賢院に待制される。これ以降曲江の南、少陵の北、下杜城の東、杜陵の西の住居を持ったようである。このころ彼の妻子も洛陽から長安に移ってきたかと思われる[2]

752年(天宝11載) : 封西嶽賦をたてまつる[2]。内容としては「もはや自らの仕進は望んでいないが、ひとたびでいいので意を留めてほしい」という内容であった。

753年(天宝12載) : 次男の杜宗武(753?-)が生まれる。一説に翌年の秋。このころまでに娘は3人いたとされる。

754年(天宝13載) : この頃、仕官のつてを求めて、高官たちにしばしば詩を献ずる。長雨が降り続いて妻子を奉先県の田舎に一時あずけることになる。

755年(天宝14載) : かねてから左丞相韋見素にたてまつった詩が効果をあらわしたものか、にわかに河西の尉に任じられるが断り、10月右衛率府兵曹参軍に任ぜられる[2]。実際に職に就くのは翌年春頃か[2]

756年至徳元載) : 5月家族を奉先より白水県に移す。 安禄山の攻撃により長安が陥落する。霊武(現在の寧夏回族自治区銀川市霊武市)で粛宗が即位したとの情報を聞くと、8月に家族を?州に残して、北方延州に向かい、芦子関を通って、長安脱出を試みるが、反乱軍である胡人に捕まり幽閉される。もっとも無名の杜甫を、賊は別に重んじることもなく、長安に連れてこられただけで、別に捕虜としていましめられることもなくただ長安城の中に置かれた[2]

757年(至徳2載) : 4月金光門から脱出して、間道から鳳翔に奔る。5月粛宗から左拾遺の位を授かる[2]

758年乾元元年) : 房?を弁護したことにより粛宗の怒りを買い、華州(現在の陝西省渭南市)の司功参軍に左遷される。
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