1914年[5]に東洋英和女学校高等部を卒業すると、ブラックモーア校長の配慮で寄宿舎に残り、婦人宣教師に日本語を教えながら、日本基督教婦人矯風会の書記の仕事と英文学の研究を続けた。[6]。
翌年、実家の家計を助けるために、英語教師として山梨英和女学校に赴任する[7]。同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。この時期、広岡浅子が主催したキリスト教の夏季講座で、市川房枝と出会う。
1916年頃から、童話や少女小説を『少女画報』に執筆。1917年日本基督教興文協会から初めての本『爐邉』を出版する。
これをきっかけに教師を退職し、東京・銀座のキリスト教図書出版社である日本基督教興文教会(後に、教文館に合併)に女性向け・子供向け雑誌の編集者として勤務。福音印刷合資会社の経営者で既婚者でもあった村岡?三[8]と出会い、不倫の末[9]、1919年に結婚し、村岡姓となる。1920年に誕生した長男を、1926年に病で失う。このことを機に、英語児童文学の翻訳紹介の道に入る。1927年、片山廣子の勧めにより、マーク・トウェインの"The Prince and the Pauper"を『王子と乞食』の邦題で翻訳し、平凡社から公刊。1928年には女性文学者による同人文芸誌『火の鳥』の創刊メンバーになる。1930年に『パレアナの成長』(後に『パレアナの青春』と改題)を翻訳出版。
1932年から1941年11月まで、JOAKのラジオ番組『子供の時間』の一コーナー『コドモの新聞』に出演[10]、「ラジオのおばさん」として人気を博し、寄席芸人や漫談家に物真似されるほどだった[11]。この頃、翻訳作品を自ら朗読したSPレコードをいくつか発売した[11]。
第二次世界大戦中は大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、戦争遂行に協力的な姿勢を取った。また、市川房枝の勧めで婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動に協力した。ただし、婚外子への法的差別撤廃には反対した[12]。 1945年11月21日に治安警察法が廃止され、結社権が復活。次いで同年12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により女性の国政参加がついに認められ、11月から12月にかけて誕生した日本社会党、日本自由党、日本進歩党、日本協同党、および再建された日本共産党の間で、女性議員候補の獲得合戦が始まった。各党は競い合うように「婦人部」をつくり、その部長として著名人の取り込みも始めた。村岡は11月16日に結成された日本進歩党の婦人部長に就任した[13][14]。 文部省嘱託や行政監察委員会
戦後
長男・道雄の病死後、子供に恵まれなかった事から、花子の直系子孫は存在しない。後に、妹・梅子の長女・みどり(1932年生)を養女とする。そのみどりの娘で花子の義理の孫にあたる村岡美枝、村岡恵理は共に赤毛のアン記念館・村岡花子文庫を主宰していた(資料は東洋英和に寄贈され、閉館。