村山富市
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1991年7月、土井たか子に代わり田邊誠が社会党委員長に就任すると、村山は国会対策委員長に就任した。1992年のPKO国会では、国会対策委員長として陣頭指揮を執って粘り強く抵抗したものの、6月に自公民3党の賛成多数で成立。国会対策委員長として国会運営に携わったことから、自民党梶山静六公明党神崎武法ら、各党国会対策委員長とのパイプを持つに至った。1993年1月、田邊誠に代わり山花貞夫が社会党委員長に就任したが、村山は国会対策委員長に留任した。

同年7月、第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数を回復できず、一方の社会党も新党ブームに埋もれ議席をほぼ半減させた。8月、社会党を含む8会派により非自民連立政権である細川連立内閣が発足。山花貞夫は政治改革担当大臣として入閣したものの、総選挙での敗北の責任を取り委員長辞任を表明した。後任の委員長には委員長代行久保亘と村山が有力視されるが、委員長選挙への立候補を久保が辞退。9月に行われた委員長選挙では、無投票当選阻止を図って立候補した翫正敏を大差で破り、村山が社会党委員長に当選した。当選後、書記長には久保亘を起用した。
自社さ連立政権発足

1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明すると、連立与党は次期首班に新生党党首羽田孜(細川内閣で副総理外務大臣)を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名された。しかし、首班指名直後に新生党、日本新党民社党などが社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表。社会党の与党内での影響を抑えるためのもので、「改新」は連立与党内で社会党を大きく上回る最大勢力となった。しかし社会党には事前の相談がなかったため、村山はこれに強く反発して社会党の連立離脱を表明、羽田内閣は少数与党で発足することとなる。羽田政権下、社会党内では久保亘佐藤観樹上原康助赤松広隆らが連立復帰を主張する一方、山口鶴男大出俊野坂浩賢らは連立離脱を支持した。

6月25日、進退窮まった羽田内閣が総辞職し、社会党を巡り自民党・連立与党が協議を行うなか、自民党総裁河野洋平が社会党委員長首班の連立政権を打診し、自社さ共同政権構想に合意した。しかし、自民党総裁経験者である海部俊樹が「社会党委員長を首班に支持できない」と主張し、それに中曾根康弘も同調し、連立与党は海部俊樹を統一候補に指名した。6月29日、首班指名が行われるが、衆議院で過半数に達せず、決選投票となった。その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足した。ここに1947年の片山内閣以来47年ぶりの社会党首班内閣誕生となった。また、1955年の自民党誕生以降から2010年6月に民主党の菅直人が内閣総理大臣に就任するまでの間では、自民党籍を有したことのない唯一の内閣総理大臣であった[注釈 1]
内閣総理大臣在任中1994年12月東京都にてイスラエル首相イツハク・ラビン(手前左)らと1995年6月16日、第21回先進国首脳会議にて先進7か国首脳らと「村山内閣」および「村山内閣改造内閣」も参照

1994年7月、第130回国会にて所信表明演説に臨み、「自衛隊合憲、日米安保堅持」と発言し、日本社会党のそれまでの政策を転換した(後述)。

1994年11月消費税率を3%から4%に引き上げ、さらに地方消費税1%を加える税制改革関連法が成立。1995年1月17日、兵庫県南部地震に伴う阪神・淡路大震災発生時、日本国政府の対応の遅さが批判され、内閣支持率が急落した(後述)。3月20日には「オウム真理教」幹部による地下鉄サリン事件が起こった(後述)。その後、公安調査庁の調査結果を尊重し、オウム真理教への破壊活動防止法適用を公安審査委員会に申請した(後に基準を満たさないとされ適用は見送られる)。

5月10日、自由民主党幹事長森喜朗が「村山総理は『過渡的内閣には限界がある』と洩らしている」と発言し、総理大臣官邸での村山との会話を洩らした。この発言を受け読売新聞社が「首相、退陣意向洩らす」と報道し、他社もこれに続く大騒ぎとなる。その結果、自社さ連立政権全体から森は猛反発を受け、閣内では村山の慰留に努める雰囲気が醸成され、村山内閣はその後も継続した。

1995年5月2日、現職総理大臣で初めて盧溝橋と中国人民抗日戦争記念館を訪れた[5]

6月9日、衆議院本会議で自民・社会・さきがけ3会派共同提出の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(不戦決議)が可決された。6月21日、全日空857便ハイジャック事件が発生した際には、警察の特殊部隊に強行突入を指示し鎮圧した(後述)。7月、「財団法人女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を発足させた(後述)。同月、第17回参議院議員通常選挙が行われた。この選挙は、自民党内閣ではあるが非自民首相の大型国政選挙としては、自民党が結党した1955年以来、初めてであった。この選挙で日本社会党は大きく議席数を減らしたため村山は辞意を漏らしたが、与党側が慰留したことから首相を続投し、内閣改造を行った。8月15日、『村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」』(通称村山談話)を閣議決定した(後述)。
突然の退陣

1996年1月5日、首相退陣を表明した[6]。村山の退陣については前年から様々な形で憶測が流れており、前年の参院選における社会党大敗の時には河野洋平に対し退陣の意向を漏らしたともされていた。しかし新年度予算審議を目前に控える中、退陣は早くとも予算の成立以降と考えられていたため、突然の発表は大きな衝撃を与えた。翌6日の新聞社説は一様に厳しく批判し、村山政権の政策に対しては「歴代政権が手をつけなかった成果は特筆される」などと好意的な毎日新聞も、退陣には「国民を愚ろうするにもほどがある」と怒りを込めたほどだった。

退陣の背景については、社会党内の久保書記長との関係悪化、住専問題で国会を乗り切ることへの不安、沖縄の米軍基地使用問題の泥沼化の懸念といった憶測がなされた[7]

自社さ政権協議にて、自民党総裁橋本龍太郎を首班とする連立に合意した。11日に内閣総辞職し、橋本連立内閣が発足した。

村山内閣の間、首相秘書官は、園田原三(社会党中央本部)、河野道夫(左同)、岩下正(大蔵省)、乾文男(左同)、槙田邦彦(外務省)、金重凱之(警察庁)、小林武仁(左同)、古田肇(通産省)が務めた。主治医として下條ゑみ医師(国立国際医療センター)が従事。総理大臣公邸では、ファーストレディー役の二女・中原由利、社会党中央本部の田中稔、八木隆次らが秘書を務めた。
内閣総理大臣退任後

橋本連立内閣では入閣せず、首相退任後は党務に専念した。1996年1月17日、日本社会党委員長選挙にて秋葉忠利を破り再選された。1月19日には党名を社会民主党に改称し、初代党首に就任した。しかし、所属議員のうち30人が新党さきがけ代表幹事鳩山由紀夫が提唱した新党構想に呼応し、同年9月に社民党から離党した。衆議院解散を前に衆議院議長土井たか子を社民党党首に迎え、自らは特別代表(選挙闘争本部長兼務)に就任した。第41回衆議院議員総選挙で新設の大分1区から出馬し小選挙区勝利で再選(同区では自民党現職衛藤晟一比例復活)。

11月、第2次橋本内閣にて社民党は閣外協力に転じた。


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