村井純
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1980年代 

下水道に潜ってコンピュータを接続/S&Tnet/慶應キャンパスLANプロジェクト[46][47][48]

慶應大学工学部数理工学科斉藤信雄研究室では、1978年にPDP-11上にUNIX version6を導入し計算機科学の基盤にしようとしていた。斎藤研の院生だった村井は当時数少ないUNIXの専門家に近い状況にあり、後輩にUNIXやCプログラミングを教えていた。

黎明期のインターネットの成長はUNIXの存在が大きく影響する。


同時期にコンピュータの世界ではイーサネットの標準化の議論が進み始めていて、慶應でも電気工学科相磯秀雄研究室でAcknowledging Ethernetが研究され、自作したイーサネットのハードウェアでキャンパスLANを構築し、UNIX上のソフトウェアで繋ごうとした。このUNIX使いとして村井に白羽の矢が立てられた。キャンパスネットワークを構築するプロジェクトはS&Tnetプロジェクトと呼ばれ、2つの研究室で共同して進められた。この時、相磯研究室と斎藤研究室が矢上キャンパス内部の別の棟にあったため、マンホールの中に潜り込んで下水道にこっそり回線を引いて2つの研究室を回線で繋いだ。

81年の夏、はじめて斎藤研と相磯研の間でパケットの送信実験が成功した時、喜びのあまり村井は床を転げ回ったという話も伝わっている。[49]

当時の村井は、全学科をつなぐネットワークを目標にして、暇を見つけては他の学科の先生に話しに行き、UNIXを買わせてネットワーク作りに精を出していた。一方で、当時のネットワークは遅く犬にフロッピーを背負わせてデータを運ばせた方が早い、犬に勝てないという問題には頭を悩ませながらも、なかなかUNIXを購入してくれない先生らにネットワークの利点を啓蒙してキャンパスを回った。

初歩的なネットワークであるが、当時はアメリカのネットワークも試作段階で、IEEEでイーサネットが標準化したのが83年、TCP/IPが動き出すのは85年であることから、この頃の村井らの努力も決して世界に遅れを取っていたわけではない。しかし、83年DEC社PDP-11の継続であるVAX上のUNIX4.2BSDにTCP/IPが組み込まれる所からインターネットは一気に広まりをみせる。その後JAVAを生むサン・マイクロシステムズの創業に関わったビル・ジョイがこの開発を先導していた。


IPアドレスの割り当てとドメイン名の分散管理を求める

日本でコンピュータネットワークが本格的に構築され始めた1980年代、日本の大学や研究機関などがインターネットに接続するためには、当時全世界のIPアドレスの割り当て業務を行っていた米国のSRI-NIC(Stanford Research Institute - Network Information Center)へ、それぞれの組織から個別に申請しなければならず、その申請作業は全て英語で行われた。また、日本のインターネットの現状には必ずしも適したものではなかったため、村井はインターネットの神様と呼ばれるJon Postelを訪ね、世界的に広がっていくであろうインターネットの資源管理、つまり、IPアドレスの割り当てとドメイン名の登録管理を今後どのように進めていけばよいのか、話し合った。(非英語圏の国々を多く抱えるヨーロッパ地域では日本と同様の問題を抱えており、当時同地域でインターネットの構築に携わっていたDaniel Karrenbergが、Postelに似たような相談をしていた)その後日本では、1989年2月より、SRI-NICからIPアドレスブロックの委任を受けた「ネットワークアドレス調整委員会」が、日本でのIPアドレスの割り当て業務を行うことになり、ドメイン名についても、1988年8月に村井がPostelからJPドメイン名の割り当てを受け、JUNETの管理グループであるjunet-adminが管理してきたjunetドメイン名を、1989年にJPドメイン名に移行しました。その後JPドメイン名は、JUNET以外のネットワークにおいても使用されることになるが、実質的なドメイン名割り当て組織の不在から、引き続きjunet-adminがボランタリーに登録管理を行っていた。[50]

地域レジストリーへの移譲は、日本から実験的に始まっている。IPアドレスの配布とドメイン名の登録は日本で引き受けるから、運用をIANAから移譲してほしいとかけ合い、やがて世界もそうなるから日本から始めてみようとした。その際に、.jpなどのccTLD(国別コードトップレベルドメイン)が考え出された。地域レジストリーでの運用は、日本で問題ないことがわかり、世界でも展開されることになった。[51]

日本初IX(インターネット・エクスチェンジ)を作る 1989

会員が増大し続けるJUNETの管理は限られた研究資金で運用しており、需要が伸び続けるインターネットの今後に悩んだ村井はインターネット分野そのものを学術研究範囲を超えたビジネス領域に広め、民間企業の領域にネットワークを拡張する。1989年1月岩波書店の地下にNOC(ネットワーク・オペレーション・センター/ネットワークを管理する拠点)、後のIX(インターネット・エクスチェンジ)を作る。国家資産である国立大学と民間企業が専用線で直接的につなぐことを潔しとしない人が必ずいることを考慮し、岩波書店というアカデミックなブランドにより、学術と民間を繋ごうとしたのである。これにより、東大、東工大、慶應大、岩波書店が専用線で結ばれ、TCP/IPで常時接続されたネットワーク、日本版インターネットを使う環境が整った。[52]


2010年代

技術・工学エミー賞受賞式 [53][54]

2019/04/08 W3Cを代表してエミー賞受賞式に出席。第70回技術・工学エミー賞 (Technology & Engineering Emmy Award)を受賞。Standardization of HTML5, Encrypted Media Extensions (EME) and Media Source Extensions (MSE) for a Full TV Experience部門。

村井による受賞時のコメント「ウェブには境界線はありません。そしてウェブ上の各メディアの視聴者は、世界で40億人を超えています。 W3Cウェブ上で動画再生を可能にし、ウェブ上の完全なFull TV experienceを実現するための技術標準に取り組んでいます。これはW3Cが取り組んできた多くの分野の1つですが、W3Cが開発したウェブ技術の中でもHTML5はウェブに動画をもたらし、メディア再生のためのプラグイン方式を収束しました。現在ではW3Cの技術が全てのウェブメディアアプリケーションの中核となっています。ウェブは今や、いつでもどこでも、どんなデバイスでも、どんな解像度でも、そして誰にでも利用できるプラットフォームとなりました。 私はW3Cを代表して、私たちの技術を評価したNATASに感謝します。そしてFull TV experienceの標準化に貢献されてきた各企業・個人にも深い謝意を表したく思います。」

W3Cが技術・工学部門でエミー賞を受賞するのは、2016年にW3C TTML (Timed Text Mark-up Language) 技術に対する受賞に次ぐ2回目。

2008年頃からのW3Cを舞台にしたHTML5開発はビデオストリームの配信交換をWEBのアーキテクチャ上でいかに共通化できるかが中核にあった。
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