村井純
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Winny事件

2006/2/16  京都地方裁判所でファイル交換ソフト「Winny」を開発した金子勇氏が著作権法違反幇助の罪にあたるとして争われた裁判の第19回公判が開かれた。弁護側の証人として村井が出廷。村井は検察側の質問に、「P2Pのコンセプトに基づいて、ファイルを共有するソフトだと理解した。ファイルを発見して共有する性能が優れており、中央のサーバーを持たない純粋のP2P型ソフト」、「ネットワークの効率を上げるための洗練された技法と、それを利用の目的と結び付けて考えるのは理解できない。」、「P2Pは大事な概念だが、その研究開発にブレーキがかかったと思う。」などと答えた。[35][36]

2009年WIDEプロジェクトの研究報告書の第一部にて、ーWinny開発者に対する大阪高等裁判所の判決と技術者の社会的・道義的責任についてー意見表明を掲載。[37][38][39]

2010/3/11 逆転無罪に導いた弁護士 壇俊光氏が第25回 WIDE賞を受賞。[40][41]

2013/7/6 金子勇氏死去。当時、慶應義塾大学環境情報学部長だった村井は、日経コンピュータ誌電子版に追悼のコメントを寄せた。以下一部コメントから引用「金子勇さんが受け止めた困難の社会的要因を追求し、金子勇さんのスピリットが健全に羽ばたける世に治すことは、金子勇さんとのお別れに際し私たちの硬い約束とさせていただきたいと思います。」[42]

2023/3/10 Winny事件をモデルにした映画『Winny』が公開された。脚本・監督は松本優作。村井は映画の公開に際しての取材で、「WinnyはP2Pを使った洗練された日本製の技術で、当時の技術力としては他国を遥かに超越しており、金子氏が生きていればその後のGAFAの景色は変わっていたかもしれない」などと述べる。[43] 映画を見て、「証言内容について、こちらが言いたいことは決まっていました。それは、Winnyが大事なソフトウェアであること、こういう事件が起きてしまうと、今後、技術の発展に支障が出るということです。劇中で金子さんがプログラムを直させてほしいと言ったのに、それができなかった。もしも修正できていたらこんな問題にはならなかったのにと、ご本人がすごく悔しがっていたのが印象的でした」と村井が言うと壇弁護士もうなずいた。[44]



インターネットを繋ぐための活動

1970年代

キャンプに勤しむ活発な青年であった村井は当時のメインフレームコンピューターが大嫌いだった。計算機室の前で行列して、パンチカードを打ってプログラムをつくり、計算させて、3日経ったらようやく結果がプリンターで出力されるというものでコンピューターが偉すぎて不愉快であり、以後、人間が真ん中にいて、周りにコンピューターがあるというイメージを持ち、人間のためのコンピュータネットワークの世界を模索することになる。[45]


1980年代 

下水道に潜ってコンピュータを接続/S&Tnet/慶應キャンパスLANプロジェクト[46][47][48]

慶應大学工学部数理工学科斉藤信雄研究室では、1978年にPDP-11上にUNIX version6を導入し計算機科学の基盤にしようとしていた。斎藤研の院生だった村井は当時数少ないUNIXの専門家に近い状況にあり、後輩にUNIXやCプログラミングを教えていた。

黎明期のインターネットの成長はUNIXの存在が大きく影響する。


同時期にコンピュータの世界ではイーサネットの標準化の議論が進み始めていて、慶應でも電気工学科相磯秀雄研究室でAcknowledging Ethernetが研究され、自作したイーサネットのハードウェアでキャンパスLANを構築し、UNIX上のソフトウェアで繋ごうとした。このUNIX使いとして村井に白羽の矢が立てられた。キャンパスネットワークを構築するプロジェクトはS&Tnetプロジェクトと呼ばれ、2つの研究室で共同して進められた。この時、相磯研究室と斎藤研究室が矢上キャンパス内部の別の棟にあったため、マンホールの中に潜り込んで下水道にこっそり回線を引いて2つの研究室を回線で繋いだ。

81年の夏、はじめて斎藤研と相磯研の間でパケットの送信実験が成功した時、喜びのあまり村井は床を転げ回ったという話も伝わっている。[49]

当時の村井は、全学科をつなぐネットワークを目標にして、暇を見つけては他の学科の先生に話しに行き、UNIXを買わせてネットワーク作りに精を出していた。一方で、当時のネットワークは遅く犬にフロッピーを背負わせてデータを運ばせた方が早い、犬に勝てないという問題には頭を悩ませながらも、なかなかUNIXを購入してくれない先生らにネットワークの利点を啓蒙してキャンパスを回った。

初歩的なネットワークであるが、当時はアメリカのネットワークも試作段階で、IEEEでイーサネットが標準化したのが83年、TCP/IPが動き出すのは85年であることから、この頃の村井らの努力も決して世界に遅れを取っていたわけではない。しかし、83年DEC社PDP-11の継続であるVAX上のUNIX4.2BSDにTCP/IPが組み込まれる所からインターネットは一気に広まりをみせる。その後JAVAを生むサン・マイクロシステムズの創業に関わったビル・ジョイがこの開発を先導していた。


IPアドレスの割り当てとドメイン名の分散管理を求める

日本でコンピュータネットワークが本格的に構築され始めた1980年代、日本の大学や研究機関などがインターネットに接続するためには、当時全世界のIPアドレスの割り当て業務を行っていた米国のSRI-NIC(Stanford Research Institute - Network Information Center)へ、それぞれの組織から個別に申請しなければならず、その申請作業は全て英語で行われた。また、日本のインターネットの現状には必ずしも適したものではなかったため、村井はインターネットの神様と呼ばれるJon Postelを訪ね、世界的に広がっていくであろうインターネットの資源管理、つまり、IPアドレスの割り当てとドメイン名の登録管理を今後どのように進めていけばよいのか、話し合った。(非英語圏の国々を多く抱えるヨーロッパ地域では日本と同様の問題を抱えており、当時同地域でインターネットの構築に携わっていたDaniel Karrenbergが、Postelに似たような相談をしていた)その後日本では、1989年2月より、SRI-NICからIPアドレスブロックの委任を受けた「ネットワークアドレス調整委員会」が、日本でのIPアドレスの割り当て業務を行うことになり、ドメイン名についても、1988年8月に村井がPostelからJPドメイン名の割り当てを受け、JUNETの管理グループであるjunet-adminが管理してきたjunetドメイン名を、1989年にJPドメイン名に移行しました。
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