村上藩
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『天保国絵図越後国新発田村上』天保9年(1838年)。国立公文書館デジタルアーカイブより。

村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。

豊臣政権下の1598年に村上家が当地に入ったが、1618年に改易された。外様大名の堀家3代を経て、譜代親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年内藤家が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤家が5万石の藩を統治した。
藩史
前史

平安時代藤原氏の一族中御門家が支配する荘園岩船郡(現在の村上市含む)にあり、これを小泉荘といった[1]。これに後に新しい領域が加わり、古い地域を本庄、新しい地域は加納と呼ばれるようになる[1]

平安時代末期、源平争乱(治承・寿永の乱)を制した源頼朝文治元年(1185年)に全国に守護地頭を設置すると、小泉荘には秩父家が地頭に任命された。この秩父家は頼朝の重臣として源平合戦で抜群の戦功を立てた畠山重忠の弟重宗が祖である[1]。本庄には秩父行長が入って本庄行長と改名し、その弟為長は加納の色部条(現在の村上市牧目の一部)に入って色部為長を名乗り、以後は土着した国人領主となった[1]本庄家は猿沢(現在の朝日村)を居所として極めて堅固な構えを築くが、狭い居住地域で不便だったため、明応年間(1492年から1501年)頃に村上に居所を移した[2]。だが、当時の村上は未開拓だったため、本庄家は標高135メートルの独立峯の村上山一帯に堅城である村上城を築城した。この時の築城主は本庄房長である[2]。だが房長は一族内紛の末に憤死し、跡を継いだ嫡子本庄繁長は内紛を制して越後北部に強大な勢力を築いた。

繁長は上杉謙信に仕えて鬼神とまで称された勇将であった[2]。一時期は武田信玄に通じて謙信を裏切り大いに苦しめたこともある。だが降伏して許され、謙信没後は跡を継いだ養子景勝に仕え、景勝から竹に飛雀の紋と上杉景信の名跡を継ぐことを許され、上杉一門として優遇された(ちなみに竹雀の紋は本庄家と山浦家にしか許されなかった)[2]。村上は上杉家の本拠春日山城に次ぐ軍事都市に発展し、天正16年(1588年)には本庄繁長は最上義光と戦って十五里ヶ原の戦いで最上軍を撃破し、庄内地方をも制圧した。繁長が天正18年(1590年)に村上を去ると、上杉家家老直江兼続の弟大国実頼の代官春日元忠が入った[2]

この村上は最上義光、伊達政宗ら奥州の雄を押さえるには戦略的に極めて重要な拠点となった[2]
村上家の時代

慶長3年(1598年)5月、上杉景勝豊臣秀吉の命で会津に移封された後、堀秀治が越後の国主として春日山城に入った。このとき、秀治の与力大名として村上頼勝(義明とも)が加賀小松より9万石で入り、名称を村上と改めたのが村上藩の始まりである、とされている。ただ、これに関しては不確かなことが多い。理由としては村上家が2代しか続かず在城期間が短かったこと、江戸幕府外様大名廃絶政策により取り潰されたため、史料が少なすぎるのが理由である[3]。村上家の記録として存在するのは『徳川実紀』『廃絶録』『東武実録』などであるが、これらはいずれも江戸時代中期や後期にかけて成立した史書であり、さらに徳川方の史料であるから江戸時代前期、さらに取り潰された村上家の記録としては贔屓目に書かれている可能性などもある[2]。この中で最も古いのが『東武実録』であるが、これは初代藩主を村上義明と記している[3]。だが、原文では頼勝、忠勝の名はあるが義明の名は存在しないため、同書の誤記の可能性も指摘されている[4]

村上家の出自であるが、武田信玄に追われた北信濃の戦国大名村上義清の子で[4]国清の弟とする説があり、12歳の時に加賀に赴いて丹羽長秀に仕えたとする。ただし国清の実弟ではなく義弟であるとされ、頼勝の実父は戸田武蔵守、母が義清の娘とする[5]新井白石は別説を唱え、家紋が丸に上の字で頼勝と同じである伊予の村上二郎の後胤と主張しているが、その経過は全く不明である[5]


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