村上春樹
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スピーチ内容は全文が直ちにメディアによって配信され[46]、それを日本語に翻訳した様々な文章がインターネット上に並んだ[注 7][注 8]。『文藝春秋』2009年4月号に村上のインタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」が掲載される。スピーチの全文(英語と日本語の両方)も合わせて掲載された。なお授賞式では、スピーチの途中からペレス大統領の顔がこわばってきたのが見えたという[50]

2009年5月、長編小説『1Q84』BOOK 1およびBOOK 2を刊行する。同年11月の段階で併せて合計223万部の発行部数に達した。同作品で毎日出版文化賞受賞。同年12月、スペイン政府からスペイン芸術文学勲章が授与され、それによりExcelentisimo Senorの待遇となる。
2010年代以降の活動

2011年6月、カタルーニャ国際賞を受賞。副賞である8万ユーロ(約930万円)を東日本大震災の義捐金として寄付する。授賞式のスピーチでは日本の原子力政策を批判した[51]

2012年1月2日、1月3日に放送された箱根駅伝のTVコマーシャルのナレーションを執筆した。制作はサッポロビール。監督は是枝裕和[52]

同年9月28日、『朝日新聞』朝刊にエッセイ「魂の行き来する道筋」を寄稿した。その中で、日中間の尖閣諸島問題や日韓間の竹島問題によって東アジアの文化交流が破壊される事態を心配して、「領土問題が「感情」に踏み込むと、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。」「しかし賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。」「安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いではしまってはならない。」と警告した[53][54]

2013年4月12日、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を発表する。 2014年4月18日、短編集『女のいない男たち』を発表する。

2015年1月15日、期間限定サイト村上さんのところ」を開設した[注 9]。同日から1月31日までの間に37,465通のメールが寄せられた。4月30日に更新終了[56]。読者とのやりとりは約3,500問に及んだ[57]

同年8月4日、『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の新訳英語版がHarvill Seckerから出版された。翻訳はテッド・グーセン[58]

2017年2月24日『騎士団長殺し』を発表する。2020年7月18日短編集『一人称単数』を発表する。2021年には、ユニクロから、関連するTシャツが販売され、[59]日本のみならず、海外にも販売された[60]。また、同年10月1日には、早稲田大学4号館を改築し、早稲田大学国際文学館(通称「村上春樹ライブラリー」)が開館した[61]。「村上春樹ライブラリー」は、建築家の隈研吾が村上の要望で設計を担当した[62]

2023年4月13日、『街とその不確かな壁』を発表する。
作品の特徴
小説とは方法論

村上は小説とは根本的に方法論であり、小説書くこと自体を小説に書くという、転化の作業みたいなものが小説で、それが実際の小説になると、スラスラ読めるとか、風俗的になっちゃうんだ、と語っている[63]
平易な文章と難解な物語

平易で親しみやすい文章は村上がデビュー当時から意識して行ったことであり、村上によれば「敷居の低さ」で「心に訴えかける」文章は、アメリカ作家のブローティガンヴォネガットからの影響だという[64]。「文章はリズムがいちばん大事」[65]とは村上がよく話す言葉だが、そう思うに至った理由を次のように説明している。「何しろ七年ほど朝から晩までジャズの店をやってましたからね、頭のなかにはずっとエルヴィン・ジョーンズハイハットが鳴ってるんですよね。」[65]

隠喩[注 10]の巧みさについて、斎藤環は「隠喩能力を、異なった二つのイメージ間のジャンプ力と考えるなら、彼ほど遠くまでジャンプする日本の作家は存在しない」と評している[68]

一方、文章の平易さに対して作品のストーリーはしばしば難解だとされる。村上自身はこの「物語の難解さ」について、「論理」ではなく「物語」としてテクストを理解するよう読者に促している。物語中の理解しがたい出来事や現象を、村上は「激しい隠喩」とし、の深い部分の暗い領域を理解するためには、明るい領域の論理では不足だと説明している[69]。このような「平易な文体で高度な内容を取り扱い、現実世界から非現実の異界へとシームレスに(=つなぎ目なく)移動する」という作風は日本国内だけでなく海外にも「春樹チルドレン」と呼ばれる、村上の影響下にある作家たちを生んでいる[70]。また、村上の作品は従来の日本文学と対比してしばしばアメリカ的・無国籍的とも評され、その世界的普遍性が高く評価されてもいるが、村上自身によると村上の小説はあくまで日本を舞台とした日本語の「日本文学」であり、無国籍な文学を志向しているわけではないという。なお村上が好んで使用するモチーフに「恋人や妻、友人の失踪」があり、長編、短編を問わず繰り返し用いられている。
長編小説家

村上の著作は小説のほかエッセイ、翻訳、ノンフィクションなど多岐にわたっており、それらの異なる形態の仕事で意図的にローテーションを組んで執筆している[71]。しかし自身を本来的には長編作家であると規定しており、短編、中編小説を「実験」の場として扱い、そこから得られたものを長編小説に持ち込んでいると語っている[72]。またそれらのバランスをうまく取って仕事をする必要があるため、原則的に依頼を受けての仕事はしないとしている[71]
「総合小説」への試み

村上は1990年代後半より、しきりに「総合小説を書きたい」ということを口にしている。「総合小説」として村上はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を引き合いに出している。それは「いろいろな世界観、いろいろなパースペクティブをひとつの中に詰め込んでそれらを絡み合わせることによって、何か新しい世界観が浮かび上がってくる」[73]ような小説のことを指すのだという。そして「パースペクティブをいくつか分けるためには、人称の変化ということはどうしても必要になってくる」[73]という。その試みは『ねじまき鳥クロニクル』(一人称の中に手紙や他の登場人物の回想が挿入される)、『神の子どもたちはみな踊る』(すべて三人称で書かれた)、『海辺のカフカ』(一人称と三人称が交互に現れる)、『アフターダーク』(三人称に「私たち」という一人称複数が加わる)などの作品にあらわれている。
村上が影響を受けた作家と作品

村上は自身が特に影響を受けた作家として、スコット・フィッツジェラルドトルーマン・カポーティリチャード・ブローティガンカート・ヴォネガットレイモンド・チャンドラーらを挙げている[74]。このほかにフランツ・カフカドストエフスキーらの作家も加わる。「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本」としてフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、そしてチャンドラーの『ロング・グッドバイ』の3冊を挙げている[75][注 11]


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